yukemuriのブログ

コント(掌編小説),いろはカルタ随想、江戸川柳色は匂へ、花かるた色は匂へ、趣味の5・7・5アラカルト俳句と川柳。

新しく「江戸を見れば」265年の整理に取り組んでいます。

江戸を見れば 115  時代の変化に対応できず

 1717年享保2年丁酉(ひのととり) 時代の変化に対応できず反動政治へと走る将軍吉宗。吉宗は家康の時代を理想として「諸事権現様御定之通」と、政治の舵を切った。


 農民の強訴が全国各地で頻発し、農民一揆としての力を備え始めた。江戸時代の民衆運動の始まりで、吉宗は強訴にどう対応するかで苦労をした。
 農民だけではなく、町人や商人も農民一揆に参加し始め規模も大きく全国各地に民衆運動の波が広がっていった。


 百姓一揆に対する処罰が明文化されたのは吉宗が将軍となってから26年後1741年(寛保元年)のことである。


 頭取死罪、名主重き追放、組頭田畑取上所払、総百姓村高に応じ過料


 と、厳しいものであったが、厳密に守られなかったために一揆は減るどころかふえるいっぽうであった。


 普請奉行であった大岡忠相を江戸町奉行に任用したのがこの年である。忠相があの吉川英治の小説で有名になった大岡越前守の初代である。


参考=町奉行(まちぶぎょう)とは江戸時代の職名で、領内の都市部(町方)の行政・司法を担当する役職。
   強訴=為政者に対して徒党を組んで強行に訴えること。
   越訴=(えっそ・おっそ)正規の手続きをせずに上級の役所に起こす訴訟。
   逃散=農民が領主の誅求(ちゅうきゅう)に対する反抗手段として他領に逃亡す
      ること。誅求=農民を責めつけて税金などを搾り取ること。


民衆の抵抗手段は強訴・越訴・逃散が主力であった。

×

非ログインユーザーとして返信する

あと 2000文字

※は必須項目です。