yukemuriのブログ

コント(掌編小説),いろはカルタ随想、江戸川柳色は匂へ、花かるた色は匂へ、趣味の5・7・5アラカルト俳句と川柳。

新しく「江戸を見れば」265年の整理に取り組んでいます。

江戸を見れば 107  徳川綱吉将軍麻疹で没

 1709年宝永6年己丑(つちのとうし) 正月10日に綱吉は麻疹で没した。2月には夫人も麻疹で死没。


 批判の的であった生類憐みの令と宝永通宝の通用令は廃止された。
 人事の刷新も行われ、5月1日には家宣(いえのぶ)が将軍となり、6月3日には柳沢吉保は隠居した。
 側用人間部詮房(まなべあきふさ)と若年寄支配下であった新井君美(きみよし・きんみ)(白石は号)の時代となった。


 綱吉の死は、人々をホッとさせたという。


 公家の近衛基煕(このえもとひろ)の正月13日の日記。


「そもそもこの将軍の政務30年の間、歳々吉事なし、庶民の愁憂は日々に増益し、近年においては、その譲りを待つのみ、西丸においては大旱の雲霓(たいかんのうんげい)なり、しかるに諸国の人民この凶事を聞く、内心に悦びを含むものか、謂うなかれ、謂うなかれ」


 大旱の雲霓=孟子の梁恵王下。雲霓は雲と虹で雨の前後に現れるもの、日照りの時に雨を待ち焦がれるように、ある物事の到来を切望することをいう。
 西丸とは江戸城の西の丸にあった綱吉の甥で嗣子となった家宣のこと。このころの童謡に「万代の亀の甲府が世をとりて宝永事よ民の悦び」とある。甲府とは家宣のこと。


 天皇は東山天皇から中御門天皇へ。将軍は徳川綱吉から徳川家宣へ。大老柳沢吉保から側用人間部詮房へと時の権力者が移動していった。


 権力の座についた間部詮房と新井君美の政治手腕はどんなものであったのか。


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