yukemuriのブログ

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新しく「江戸を見れば」265年の整理に取り組んでいます。

江戸を見れば 102  武士に対する刑罰が緩和

 1704年元禄176年甲申(きのえさる) 綱吉の文治政治の象徴ともいうべき湯島の聖堂が前年の大火によって類焼したのを再建し11月に落成、遷座式が催された。


 文治主義(ぶんちしゅぎ)の具体化として、武士に対する刑罰の内容が緩和された。半面、幕臣や役職の綱紀の弛緩が現れ始めた。


 参考=武士の刑罰例、閉門・逼塞(ひっそく)・遠慮は武士や僧侶に対する監禁刑。自宅での謹慎で閉門が一番に重かった。門や窓を閉じて昼夜の人々の出入りも厳禁。やむを得ない場合は夜間に事を弁じる。医者を呼ぶことはできた。50日あるいは100日間の謹慎である。
 預かりは他家での身柄監禁。差控(さしひかえ)は自宅での謹慎である。
 このときの規定がその後の幕府法の準拠となった。


 時の権力者、柳沢吉保を甲府藩主(1万5千石)とする。


 武士に対する刑罰を緩和する一方で、女順礼の市中群行、僧俗が念仏講といって夜間に提灯を掲げて往来することを禁止。


初代市川団十郎が舞台で役者の生島半六に刺殺され2月19日に54歳で没した。和泉大夫の金平人形の動きを見て荒事(あらごと)ということを思いついたといわれている。


 文治政治(ぶんちせいじ)は、武断主義に対して、法律・制度の整備や儒学を中心とした教化の充実に基づく文治主義(ぶんちしゅぎ)を基本とした。
 文治政治を推進していくためにかなりの混乱が当時の世相に現れている。政治の在り方を変えることは大変なことであることが分かる。

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