yukemuriのブログ

コント(掌編小説),いろはカルタ随想、江戸川柳色は匂へ、花かるた色は匂へ、趣味の5・7・5アラカルト俳句と川柳。

新しく「江戸を見れば」265年の整理に取り組んでいます。

江戸を見れば 100   赤穂浪士討ち入り事件

 1702年元禄15年壬午(みずのえうま) 将軍 綱吉、時の権力者、老中上座の柳沢吉保。日本国の人心は乱れに乱れていた。


 大坂の男伊達五人男処刑。旗本某偽印で町人から借金を斬罪。犬を殺した馬喰、切腹。勤務なしの京町奉行某を罷免、賭博犯を処罰、旗本3人斬首、18人を遠流。農民と商人38人を処罰。


 そのような社会状況の中、12月15日の早暁4時ごろ、赤穂藩元家老大石良雄ら旧藩士47人は江戸本所松坂町の吉良邸に討ち入り、義央の首を上げた。


 旧主浅野長矩の仇を討ち高輪泉岳寺の墓前に供えた。
 自首した、藩士はそれぞれ細川家のほか大名家に預けられた。
 その処分については議論があったが、翌年3月に切腹となった。


 将軍の綱吉は浅野内匠頭の即日切腹を命じた。 当時殿中での刃傷は理由の如何を問わず死罪と決まっていたのでこれは当然である。
 一方の吉良は特におとがめもなく、むしろ将軍からこう見舞いの言葉をかけられた。
「手傷はどうか。おいおい全快すれば、心おきなく出勤せよ。老体のことであるから、ずいぶん保養するように」


 武士社会の慣習からいえば、「喧嘩」が起こった際には「喧嘩両成敗」の法が適応されるので、浅野と吉良は「双方切腹」となるはずである。
 浅野内匠頭の一方的な「暴力」とみなされ、また吉良に見舞いの言葉があったのは、吉良が将軍の親戚筋に当たる為かもしれない。


 この事後処置が「赤穂浪士討ち入り」へとつながっていったと考えられる。
 ことが起きたときの最大の問題は事後処置である。事後処置を誤ると政権そのものが崩壊する恐れがある。
 幕藩開闢100年にして、政治の流れを変えていく事件であった。


 さて、森友学園の問題の決着をどうつけるかは、日本の民主主義を復活させるか完全につぶすかの岐路に立っている。正義と公正、そして使命感は政治家と官僚が身をもって示すべき道徳の基本である。



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