yukemuriのブログ

コント(掌編小説),いろはカルタ随想、江戸川柳色は匂へ、花かるた色は匂へ、趣味の5・7・5アラカルト俳句と川柳。

新しく「江戸を見れば」265年の整理に取り組んでいます。

江戸を見れば 99  「遺恨、覚えたるか。」武士の面目

 1701年元禄14年辛巳(かのとみ) 柳沢吉保(よしやす)(保明)独り舞台の権力者となる。


 綱吉は12月26日に柳沢保明の屋敷に出向き、松平の家号と綱吉の名の一字「吉」を与え、徳川家の一族に準ずると面令した。
 保明の父安忠は将軍家光に数十年にわたり奉公し、保明(吉保)も20歳代から奉公し、儒学の弟子として人臣の模範として綱吉に奉公した。前例のない側用人から老中上座に異例の栄達をした。


 今も昔も政治の基本は同じである。「忖度」「賄賂」「献金」は当たり前の礼儀であった。


 今、森友問題で「忖度」が話題になっているが、政治の世界はもとよりあらゆる人間関係の中では基本的な礼儀である。問題は8億円の値引きが妥当であったのかどうかに尽きる。これしかない。


 3月に赤穂藩主浅野長矩(ながのり)が城中白木書院廊下にて高家吉良義央(よしひさ)に切りかかり負傷を負わせた。


 以後、赤穂事件の原因説が多く流布された。しかし、どの原因をとっても事件に至る要因の一つで、問題は「松乃廊下で切りつけた。」という事実に尽きる。


 事実だけをもって事後処置をした。綱吉と柳沢吉保の裁きは見事であった。江戸幕府を救った。吉保は切れ者である。


 念のために、事件に至った要因を列記してみる。
・浅野長矩の性格傾向。短気で女好き、神経質でノイローゼ気味。
・礼金と賄賂不足。
・吉良義央のいじめ、悪口(あっこう)癖。ものをせびる。塩田の技法を盗む。長矩の女妾を要求。横柄な態度で有名。


 などなどと多くの人たちが記録にとどめているが、これは浅野側と吉良側では評価が食い違い事件の要因としては面白いが、事件の核心をつくものではない。


 ここでかなり重要な証言がある。
事件現場に居合わせた茶坊主の記録。
内匠頭は「小用に立つ」といって席を立ち、大廊下を通り、「覚えたか」といって上野介に切りかかったという。
 また、浅野長矩の事情聴取で「「乱心ではありません。その時、何とも堪忍できないことがあったので、刃傷におよびました」と答えている。


 事件に至るまでの要因があったことには間違いないだろうが。直接の行動に至ったのは、武士の面目を多くの同僚の面前で潰された「一言」であったのではと、私は考える。


 なお江戸時代においては、「悪口(あっこう)は殺害同様の御制禁」となっている。


 武士の面目を潰す一言とは何であったのであろうか。



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