yukemuriのブログ

コント(掌編小説),いろはカルタ随想、江戸川柳色は匂へ、花かるた色は匂へ、趣味の5・7・5アラカルト俳句と川柳。

新しく「江戸を見れば」265年の整理に取り組んでいます。

江戸を見れば87  芭蕉46歳 「奥の細道」成稿

 1689年元禄2年己巳(つちのとみ)2月に綱吉は新たに奥詰衆を置き側近の諮問に応えさせた。これは外様大名から選ぶ。譜代、外様の区別なく有能な人材を幕政に登用した。側近政治の温床になる。


芭蕉 歳旦吟


元日は田毎の日こそこひしけれ
 (更科の田毎の月のすばらしさ。初日の映る「田毎の日」はどんなものであろう。更科
  の旅が胸にせまるよ。)


 3月初旬、みちのく行脚に出立。先ず、杉風(さんぷう)の別墅(べっしょ)に移る。


 3月27日、曾良を伴い奥羽北陸の旅に出る。8月20日過ぎごろ大垣に至り9月6日まで滞在。この旅で「不易流行論」を着想。


 旅中吟の一部


風流の初やおくの田植うた
 (白河の関を超えて奥州に入った。ひなびた奥州の田植え歌が私を迎えてくれた。風流だね。)


さみだれをあつめて早しもがみ川
 (五月雨で最上川はあふれんばかり。私の身も心も本流にのまれそうだ。)


象潟や雨に西施がねぶの花
 (雨にぬれるねむの花。哀れな優しさが美人の西施を空想させる。)


荒海や佐渡によこたふ天川
 (日本海の荒海の中に喜怒哀楽渦巻く佐渡島。何もかも流して今宵は天の川を観賞しよ
  う。)


塚もうごけ我泣声は秋の風
 (私を待ち焦がれて亡くなった「一笑」よ。悲しみに耐えられず大声をあげて泣いた。
  私の泣き声が秋風となり塚を吹き抜ける。一笑よ。一笑よ・・・。)


 以上の旅の紀行が「奥の細道」である。


 9月下旬、伊賀上野に帰郷し、俳事を重ねて11月まで滞在。11月末、奈良に出て、京都、大津に遊ぶ。このころ「不易流行論」を説く。


 12月、季吟、湖春父子が幕府の歌学方となる。季吟は芭蕉の師。


「不易流行」論


 芭蕉が古人の伝統を継承し、それを自己の創造の上に生かしてゆこうとしました。相矛盾した二つの課題に芭蕉はどう応えようとしたのでしょう。それが『奥の細道』の旅を通じて開眼し、その後門人たちに説かれるようになった「不易流行」の理念です。

 俳諧は絶えず新しく変化してゆくところに不変の本質があるという文学観と、俳諧の不変の価値は風雅の誠を追求する絶えざる自己脱皮から生まれるという実践論とを包合するものでした。

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