yukemuriのブログ

コント(掌編小説),いろはカルタ随想、江戸川柳色は匂へ、花かるた色は匂へ、趣味の5・7・5アラカルト俳句と川柳。

新しく「江戸を見れば」265年の整理に取り組んでいます。

江戸を見れば 56 大村藩キリシタン処刑つづく  芭蕉15歳

1658年明暦4年戊戌(つちのえいぬ)万治元年(7月23日)


  年の明暦3年に大村藩ではキリシタンを90人逮捕してその内の56人を島原で処刑した。
 つづいて、本年も603人逮捕して処刑をしている。キリシタン禁制の高札を出して、取り締まりを厳しくしている。


 大村藩とはどんな藩であったのか、外様大名であった。
 大村喜前ははじめ、ドン・サンチョという洗礼名を持つキリシタンであったが、慶長7年(1602年)に加藤清正の勧めを受けて日蓮宗に改宗し、キリシタンを弾圧した。そのため元和2年(1616年)にキリシタンによって毒殺されたともいう。
 外様大名であるということと過去の因縁から殊更にキリシタン弾圧が厳しかったのであろうか。


 高札の内容 訴人への賞金の増額を知らせる。
 バテレンは銀200枚を300枚に、イルマンは銀100枚を200枚に、同宿・門徒は事情により銀30枚から50枚。なお隠匿が発覚すれば五人組まで処罰する。


 芭蕉が奉公した五千石の藤堂新七郎家の様子はどうであったのか。奉公人の人数はおよそ12人から13人であった。
 奉公人の仕事内容は「男は主人や家族の供、走り使いなどの外出仕事から、水汲み、薪き割り、米つき、野菜作り、縄ない、草履・わらじ・馬の沓づくりなど」と多岐にわたっていた。
 
 芭蕉は奉公人の中でも最下級の小者中間で、年俸に直すと1両1分から2両までであったと考えられる。仕事の中心は藤堂新七郎家の料理人である。


 幼弱な新七郎家の跡取りのお供をして、俳諧の場に同席できたことが俳諧への興味や知識を積む学習となった。