yukemuriのブログ

コント(掌編小説),いろはカルタ随想、江戸川柳色は匂へ、花かるた色は匂へ、趣味の5・7・5アラカルト俳句と川柳。

新しく「江戸を見れば」265年の整理に取り組んでいます。

江戸を見れば 55  旗本奴が町奴を殺害 芭蕉14歳

 1657年明暦3丁酉(ひのととり)7月、水野十郎左衛門茂之が幡随院長兵衛を殺害する。


 町奴の長兵衛が、水野の旗本奴の屋敷へやってきて遊里へ誘ったが、水野が今日は都合が悪いと言って断ったのに立腹して、自分の勇気が恐ろしいから断ったのだと罵倒し無礼なふるまいをした。


 水野も怒って長兵衛を討ち捨てた。


 町奴の強きをくじき弱きを助けるという侠気が武士に対抗するという庶民意識に支持されて旗本奴との対立が当時の背景にあった。


 芭蕉の記録が確認された初めが、芭蕉14歳の年である。


 芭蕉は武家奉公に出た。奉公先は藤堂主計(かずえ)良忠蝉吟子(よしただせんぎんし)に仕え大変に寵愛を受けたということである。
 蝉吟は俳号で、子は敬称。良忠は、藤堂新七郎家の嗣子、幼弱であった。
 その良忠について芭蕉も俳諧の場に参加できたようである。その頃に創ったといわれる芭蕉の句があるが、本当かどうか問題があるようだ。


  いぬとさるの世の中よかれ酉の年


 芭蕉が奉公した新七郎家は藤堂藩伊賀付きの士(さむらい)大将で石高は五千石、伊賀では城代をつとめた七千石の藤堂釆女家につぐ家柄であった。
 新七郎家の当主は代々新七郎という通称を襲名した。芭蕉が仕えた当時の当主は名乗り(本名)藤堂良精(よしきよ)と称した。


 武家奉公人は正規の家臣ではなく一時雇が原則であるが、終身雇用のケースもあった。
 芭蕉は、幼弱な七郎家の跡取りに巡り合ったことが俳聖への道への第一歩であったと考えられる。  幸運なめぐり逢い。