yukemuriのブログ

コント(掌編小説),いろはカルタ随想、江戸川柳色は匂へ、花かるた色は匂へ、趣味の5・7・5アラカルト俳句と川柳。

新しく「江戸を見れば」265年の整理に取り組んでいます。

つぶやき 97  「学校が壊れる」週刊東洋経済

 行きつけの本屋で9月16日号の週刊東洋経済を買った。
「学校が壊れる」~学校は完全なブラック職場だ~を一気に読んだ。


 昭和30年代の教員の勤務実態は凄かった。こんなもんじゃないぞ。


 授業が終わって、部活や個別指導が始まり、夕方の5時過ぎから職員会議や学年部会、研究会、組合の話し合いと夜中の12時に家に帰り着けばよい方だ。
 まだ教員の中で車を持っている人は一人もいない。単車を持っている人が学校に一人か二人の時代である。みんな歩いて出退勤をする時代であった。


 当時はやっていた芸者ワルツの替え歌を学校帰りに歌ったものだ。
「空には三日月 学校帰り 手には重たいぼろカバン ならなきゃよかった先生などに これが苦労のはじめでしょうか」
 悲壮感はなかった。少し自虐的に結構楽しく歌ったものだ。


 過労死の問題などはまったくなかった。教員生活を楽しんでいたふしがある。
 何故か。
 それは子どもたちや保護者や地域住民の多くの人たちが、尊敬のまなざしをもって支えていたからである。教員をまるごと受け入れているのがよく伝わってきた。


 口角泡を飛ばし結論が出ない時は、学校の宿直室に場を移して結論が出るまで話し合った。先輩の夕食の差し入れで一杯飲みながら激論が明け方までも続き、ついには宿直室からの出勤ということも度々あった。
それほど教育という仕事に生きがいを感じていた教員が多くいた。


 やればやるほどその成果が目に見える。


 まるで舞台監督や芸術作家やスポーツの専門家になった気分でとことん仕事に打ち込むことができた。教員それぞれの個性が生かされた時代でもあった。何と言っても自由な雰囲気が教育界に満ちていた。


 ある法律をきっかけに次々に法律や条例やと学校に対する締め付けが厳しくなって、これまでの学校が変化し始めた。この流れを一つ一つ調べていくと一つの事実に突き当たる。それが何かが分れば、「学校を壊したのは誰か」がはっきりとしてくる。


 大変な労働環境の中でもへこたれるものではない。認められ受け入れられていれば人間は相当な過酷な条件の中でも確かな仕事をこなしていくものである。
 よい先輩がいて、純真な子どもが居て、尊敬のまなざしで教員を受け入れてくれる親や地域の住民が居ればそれだけで教員は自分の命や家族の生活も顧みず取りつかれたように教育に没頭していく。そのような危険性をも孕んでいるのが教育の仕事である。