yukemuriのブログ

コント(掌編小説),いろはカルタ随想、江戸川柳色は匂へ、花かるた色は匂へ、趣味の5・7・5アラカルト俳句と川柳。

新しく「江戸を見れば」265年の整理に取り組んでいます。

江戸を見れば 53  消費生活の向上と貨幣経済の発展

1655年承応4年乙未(きのとひつじ)明暦元年(4月13日)


 城下町での家臣団の消費生活の向上に伴い江戸のインフラ整備や貨幣経済の改革が進行していった。


 消火用の堀井戸の準備と水桶(防火用水)の完備を急いだ。1町の両側に8つずつを原則に堀井戸を設け、商売の妨げになるときは蓋をすること。水桶も井戸と同じように蓋をして常時満水の水を貯えることを整備した。


 江戸の生活の発展に伴い膨大なゴミがでてそのごみ処理が大変であった。町のゴミは船に積んで永代島の札の建てられた指定の場所に捨てるようにした。道路に捨てたり、指定以外の場所に捨てたりすることを禁止し、辻番を置いて監視させた。


 災害や緊急時に備えて、会津藩では社倉法を実施した。
 承応3年(1654)、藩租保科正之は、傾倒する南宋の朱子が創設した社倉法を会津藩に導入した。
 社倉は窮民救済用貸籾の備蓄制度で、(1)天災・飢饉・火災、その他不時の災害の被災者、及び(2)医療・救貧・新田開発・土木治水工事などの目的に限って、貸与された。農民は収穫時(年貢収納時)に年2割の利子米をつけて返済した。


 瞬く間に全国に普及した。家康の孫(庶子)、保科正之は優秀な経営感覚を持った領主であった。


 徳川家綱の補佐として十分にその力を発揮したことが推し量られる。
 19年間補佐役として、時の権力者として徳川家を支えたことでも切れ者であることが実証される。