yukemuriのブログ

コント(掌編小説),いろはカルタ随想、江戸川柳色は匂へ、花かるた色は匂へ、趣味の5・7・5アラカルト俳句と川柳。

新しく「江戸を見れば」265年の整理に取り組んでいます。

江戸を見れば 51  近松門左衛門誕生

 1653年承応2年癸巳(みずのとみ)6月23日に京都の内裏で出火し、宝庫一つを残して全焼した。その復興は幕府にとって大きな問題であった。


 近松誕生の年に松永貞徳82歳で没、西山宗因48歳、西鶴12歳、芭蕉10歳であった。


 当時の初等教育は8歳を目安に寺子屋に入学するのが一般的で西鶴も芭蕉も学生期(がくしょうき)を励んでいたはずである。


 芭蕉家は分家筋にあたり、本家は無足人(郷士)で、身分は農民だが、名字帯刀を許された特別待遇の農民であった。


 寺子屋の教育内容はどんなものであったのだろうか。当時の教科書を覗いてみよう。
 小謡(こうたい)と漢文の素読が中心であった。
 小謡とは、謡曲の中の一節を抜き出して囃子を伴わずに謡うもの。一般庶民としての謡曲が社交上必須のたしなみであった。小謡の中には、祝儀用の祝言謡や、酒席の余興にうたう肴(さかな)謡などある。


 漢文の素読教材の中に李白の「春夜桃李園ニ宴スル序」の冒頭に「ソレ天地は万物ノ逆旅、光陰ハ百代ノ過客ナリ」という文章がある。当然、芭蕉は子どものときからこの文章に慣れ親しんでいたと想像できる。
 寺子屋によって、教材は工夫され古典の文章や書道の基本を指導していた。さらに専門的な学習を志す人は、個人的に指導者に弟子入りして学習を続けていた。


 父、松尾与左衛門は農地を持たない農人(土地を持たない農民)で、小作人として百姓をしたか、余業で生計を立てていたと考えられる。
 芭蕉は10代の早い時期に武家の雑用をする武家奉公人として働いたようである。