yukemuriのブログ

コント(掌編小説),いろはカルタ随想、江戸川柳色は匂へ、花かるた色は匂へ、趣味の5・7・5アラカルト俳句と川柳。

新しく「江戸を見れば」265年の整理に取り組んでいます。

江戸を見れば 49  由井正雪の陰謀発覚

 1651年 慶安4年辛卯(かのとう)4月20日に家光が没し、家綱が将軍となる。家光の遺言により保科正之(会津藩主)が補佐役となる。


 徳川家康の孫にあたる。江戸幕府第3代将軍徳川家光の異母弟で、家光と4代将軍家綱を輔佐し、幕閣に重きをなした。日本史上屈指の名君との呼び声も高い。第2代将軍徳川秀忠の四男(庶子)として生まれる。幼名は幸松。


 大老を抑えて時の権力者のトップとなる。


 家光没という動揺期をねらって、幕府政策の批判と浪人の救済を掲げて丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義など各地で浪人を集めて幕府転覆を計画した。決起の寸前に計画を密告され、正雪は駿府の宿において町奉行の捕り方に囲まれて自刃した。


 大名取り潰しによる浪人の増加が社会不安に結びついていることが事件の背景にあるとして、4代将軍徳川家綱以降の政治が武断政策から文治政策へ転換するきっかけの一つとなった。


 保科正之補佐の考えが幕藩政治に生かされる第一歩であったのだろう。彼の名前が出て来る時はよく大きな事件が起きており、それをうまくよい方向に導いているところが日本屈指の名君と言われる所以である。


 家光の殉死者、老中堀田正盛(佐倉藩主)ら4名。大奥女中3700余人を解雇、解雇にともない一万二千三百四両を支給し、大奥の殿舎の多くを破却して内からの改革の手始めとする。


 保科正之補佐の業績から現代を見直すヒントがあるかも。