yukemuriのブログ

コント(掌編小説),いろはカルタ随想、江戸川柳色は匂へ、花かるた色は匂へ、趣味の5・7・5アラカルト俳句と川柳。

新しく「江戸を見れば」265年の整理に取り組んでいます。

江戸を見れば 33  参勤交代の制度化

 1635年 寛永12年乙亥(きのとい) 鎖国体制と諸大名に対する統制の引き締め。武家諸法度の改定と参勤交代の制度化、寺社奉行の設置、評定所制度の新設と幕藩体制の基礎は徳川家光13年目にしてほぼ形が整ってきた。


 参勤交代と一口で言っても一度に形が整ったわけではない。初めは外様大名に対して4月交代の参勤が確立した。これより30年ほど前に諸大名の妻子を江戸に留置することを実施していた。


 参勤交代のそもそもの目的は、徳川将軍家に対する軍役奉仕である。将軍と大名の主従関係を示す軍事儀礼にあった。初めは譜代大名には参勤交代の義務はなかった。


 1642年(寛永19年)武家諸法度の改正により徳川御三家を含む全ての藩の1万石以上の諸大名が、基本的にはおよそ1年余りを江戸で過ごすように定められた。
 しかし、ケースバイケースで藩の事情を勘案して江戸で過ごす期日などに対応していた。
 諸大名の勢力をそぐことや大名の跡継ぎが全員江戸育ちとなり精神的に領地との結びつきが薄くなるなどということは結果論であって、かえって、藩の財政が破綻して軍役が不可能とならないようにと「大名行列は身分相応に行うべき」との通達を行っているほどである。


 保科正之(ほしなまさゆき)、徳川家康の孫にあたり、第3代将軍徳川家光の異母弟にあたる。家光と4代将軍家綱を補佐し、幕閣に重きをなした。
彼が最高のブレーンであらゆる面で知恵を出しているようである。保科正之については、幕藩体制の基礎作りにどうかかわっていったのか調べてみるのも面白い。
 
 表に出ない切れ者が現在でも権力者を知恵で支えている。