yukemuriのブログ

コント(掌編小説),いろはカルタ随想、江戸川柳色は匂へ、花かるた色は匂へ、趣味の5・7・5アラカルト俳句と川柳。

新しく「江戸を見れば」265年の整理に取り組んでいます。

江戸を見れば74  芭蕉33歳 「江戸両吟集」を出版

 1676年延宝4年丙辰(ひのえたつ)春、山口信章(素堂)と両吟百韻二巻を巻いて天満宮に奉納し、「江戸両吟集」として出版する。


立句(たてく) 此梅に牛も初音と鳴つべし   桃 青

脇句      梅の風俳諧諸国にさかむなり  信 章

天満宮の見事な梅の花に鶯はもとより、きっと牛までも初音せんものと鳴くことであろう。  季語は「梅」で春。


  天秤や京江戸かけて千代の春   桃 青

 京と江戸の初春を秤にかけるとちょうど釣り合う二都である。ともに千代の栄を寿ぐ(ことほぐ)めでたさであるよ。季語は「千代の春」で春(新年)


  夏の月ごゆより出(いで)て赤坂や   桃 青

 参考、御油も赤坂も三河の国の一駅、両駅間の距離は16丁で約1.7キロで東海道の中で最も短い距離である。夏の夜の短さをこの駅間で表すことが多くあった。
御油も赤坂も当時は旅の恥はかき捨ての地帯であった。


 夏の夜は短く明けやすい。空行く月もあっという間に御油から赤坂に隠れてしまう。  季語は「夏の月」で夏。


 女の影が見えない芭蕉にとって、この月を見るということは若き日の男色から卒業して30代の男、芭蕉を想像することができる。

江戸を見れば73  芭蕉32歳 宗房より桃青と改める

 1675年延宝3年乙卯(きのとう)5月、東下中の談林派の総帥、西山宗因歓迎の百韻を興行。


 立句(たてく)「いと涼しき大徳也(なり)けり法の水」宗因。

 立て句とは、俳諧で連句における発句(ほっく)のことで、単独の発句(=俳句)と区別するための呼び方。


 この年に松倉嵐蘭(らんらん)29歳と服部嵐雪(25歳)が芭蕉(桃青)に入門する。芭蕉が俳諧師として頭角を現してきた証であろう。


 日本古典文学全集の芭蕉全集より、32歳の句、1句。


 町医師や屋敷がたより駒迎(こまむかへ)   五十番句合

 参考=町医師は江戸時代、民間で開業していた医者のこと。大名その他の武家のお抱え医者に比べ、地位が引くかった。駒迎へは、昔から8月の駒牽き(こまひき)のとき、諸国から貢進(こうしん)する馬を、8月15日に左馬寮の使いが逢坂の関まで出迎えたこと。


 腕前を認められた町医者がさる大家から馬で迎えられた。古来駒迎えは宮中の左馬寮(さまりょう)から迎えが出るのであるが、これはまた屋敷方よりの駒迎えとは珍しいことよ。  季語は「駒迎」で秋


 町医者という庶民感覚の題材を取り上げたところが桃青としての新しい方向かも。談林派の隆盛を支える桃青(芭蕉)の活躍がしばらく続くことになる。



江戸を見れば72  芭蕉31歳 俳諧師として自立

 1674年延宝2年甲寅(きのえとら)3月17日に京都の季吟より連俳秘書「埋木(うもれぎ)」の伝授を受けて、これより俳諧師として立つ。連俳秘書は俳諧師として立つ上の卒業免状のようなもの。


季吟先生は、「枕草子曙抄」を完成させる。

この年に榎本其角(14歳)が芭蕉に入門する。


 2月に幕府は焼失した内裏の再建を伏見奉行を総奉行とし岡山藩に助役させた。竣工(落成)は翌年11月。


 天皇家や公家は元和元年(1615年)の「禁中並公家諸法度」によって日常の生活や行動が直接に規制され、経済的には幕府に依存しなければならないものとなっていた。


 災害は連年に全国的に見まい、飢饉は慢性化していた。加えて今年の被害は甚大であった。


 芭蕉の俳句のなかで一番好きな句。


 山路来て何やらゆかしすみれ草   芭蕉

 この句に行きついた経過とこの句が後の俳人に与えた影響を調べるのが楽しみである。


 この句の影響、蕪村と虚子へ。


 夏河を超すうれしさよ手に草履   蕪 村

 湯煙の消えてほのかや合歓の花   高濱虚子




江戸川柳 色は匂へ  「つ」の2 突き目

ほれていたつき目へ乳のはしり過ぎ   知らぬが仏

突き目=眼球に受けた外傷。民間療法では乳をたらすとなおるという。


惚れていた男だったのでつい力が入って男の顔中は乳だらけ。そんなこととはつゆ知らず。


目にたのむ乳から味に道がつき   美しい。目にはもったいない。

突きもせぬ目に貰ひ乳のひざ枕   うまいことやりやがって、ふてえ野郎だ。




江戸を見れば71  芭蕉30歳 井原鶴永、西鶴と改号

 1673年寛文13年癸牛(みずのとうし)9月21日に延宝元年となる。 時の権力者として、大老の酒井忠清の一人舞台となる。


 6月に井原鶴永(かくえい)(32歳)、西鶴と改号して大坂の生玉南坊で万句俳諧を興行して、生玉万句を出版する。
 大坂談林の雄、井原西鶴が浮世草子の第一作「好色一代男」に筆を染めたのも天和元年(1681年)西鶴40歳のときである。


 一方芭蕉は、29歳で江戸に出て、2,3年で俳壇に頭角を現し、34歳から36,7歳ごろまで、新進の俳諧宗匠として活躍する。大阪の西鶴と江戸の芭蕉は談林俳諧全盛期の東西の雄であった。


 俳諧人口の増大が俳諧宗匠としての職業的地位を安定させた。


 芭蕉が吟先生とよんでいる北村季吟はこの年に「源氏物語湖月抄」を完成させる。


 発句合(ほっくあわせ)がどういうものであったのか、「貝おほひ」の序を読んでみるのが一番である。日本古典文学全集の口語訳の一部を紹介してみよう。

『小六の突いた竹のつえ…』と、小唄に歌われる竹の杖には節々が多いけれど、そのようにさまざまな節多い小唄の文句を材料とし、あるいは、はやり言葉の、おもしろいものを種として、詠み捨てられた発句を拾いあつめ、右と左に分けて、二人がつれぶしで歌うように、二つの句を対照させ、その句の横へこのわたしが、へたな文章で、なぐさみ半分のうさ晴らしに、どちらの句が正しいだの、格が上だのと書きつけて、左右六十句、三十番の発句合を思い立った。・・・(以下略)


 句の優劣の判定をのべた言葉を判詞(はんし)という。この判詞を読むとその人の力量がよく理解できる。