yukemuriのブログ

コント(掌編小説),いろはカルタ随想、江戸川柳色は匂へ、花かるた色は匂へ、趣味の5・7・5アラカルト俳句と川柳。

新しく「江戸を見れば」265年の整理に取り組んでいます。

江戸を見れば 57 武断から文治主義への転換 芭蕉16歳

 1659年万治2年己亥(つちのとい)江戸城本丸は5月15日に造立を経て、8月3日に竣工し9月5日に将軍家綱は西丸から転居した。この本丸は天守閣がなかった。時代の流れを象徴したものである。


 その一方で、賄い方や奥坊主・大奥などについての規制は厳しいものであった。


奥坊主=将軍に茶・湯水の給仕、茶室での茶湯とその清掃、奥の勝手・茶部屋・露地部屋・数寄屋などに居り火の番もした。
数寄屋=茶室。茶席・勝手・水屋などが一棟に備わった建物。


奥=表に対して将軍の私生活の場。中奥は将軍個人の居室。大奥は将軍の妻妾の居室。中奥と大奥には境界があり、大奥は将軍のほかは男性禁制。大奥の一部の広敷(ひろい座敷)番に庶務担当の男性役人が10人おり二人ずつ一昼夜交代の勤務をした。
大奥勤務の女性を奥女中といいこの当時は3人の老女が監督していた。


 芭蕉は新七郎家のなかでは通称で半七と呼ばれていた。この一事からでも芭蕉は藤堂新七郎の長男主計(かずえ)俳名蝉吟子(せんぎんし)に仕え殊の外寵愛されたことがうかがえる。


 蝉吟は京都の北村季吟の門人でその関係で芭蕉も宗房と名乗っていた当時は季吟と親しく接していたと考えられる。
 一時期、芭蕉は蝉吟専属の奉公人の立場にあったと思われている。一介の武家奉公人として、新七郎の嫡子で通称主計(かずえ)、名乗り(本名)良忠(よしただ)のお供をして師匠北村季吟の教えを受けたことは運命的な出会いとしか言いようがない。


 芭蕉より2歳年上の蝉吟(せんぎん)は25歳で没した。



江戸川柳 色は匂へ  「よ」の2 嫁

御みくじで貰った嫁もにくがられ    神も仏もなんのその。


中のよい嫁はお経をよみならひ     えらかもんじゃ。結構結構。


永い日も二つとできぬ嫁の髪      ポニーテールにしたら。


湯殿から忘れた時分嫁は出る      念には念を入れますとも。


しかってもしかっても嫁うすぎなり   わかる。わかる。現役ですぞ。



花かるた 色は匂へ 「ふ」の4 富士薊(秋)

      富士薊咲いて二合目霧うすれ   谷川朱朗


   

            季節の花300より

      八丈に富士山ありて富士薊    湯浅桃巴


   

            季節の花300より


 ふじあざみはキク科の多年草。関東・中部地方の山中の砂礫地に生える。特に富士山に多い。高さ50センチメートル~1メートル。とげのある葉を広げ、秋開く紫色の頭花は径5~10センチメートルでアザミ属のうち最も大きい。



教育の基本 2 遊べない先生と遊ばない先生

 若い教員の中には子どもと遊ぶことのできない人が増えてきた。


 我々の時代(戦後を小学生で過ごした)の特に男たちは遊びが生活のすべてであった。「サザエさん」のカツオのバックグランドがこの時代を彷彿とさせる。


 五寸釘一本あれば一日中「釘刺し」をして遊んだものだ。


 昭和20年から30年代にかけては子どもの遊びは数え切れないほどあった。


「釘刺し」は3,4人での遊びで、人数が多くなっていくと草野球、Sケン、宝とりと変化した。
 雨が降れば、かるた、トランプ、将棋、囲碁と夢中になった。
将棋といっても小学生がやるのは、山崩しや歩ならべ、ハサミ将棋で、囲碁は五目並べであった。


 どの遊びをとっても自然発生的に遊び方を決めてその時の人数や年齢にあった遊びを作り出した。


 要するに子どもの生活は遊びであった。


 今考えるとその遊びの中に人との付き合い方や協力の精神や正義感、そして創造力や想像力が身につくことが詰まっていたような気がする。


 いつのころからか新任教員の中に遊べない人が増えてきた。
 とても素直で十分に頑張っているのであるが、子どもとのコミュニケーションが取れなく自信喪失的な生活態度に追い込まれていく。


 何故だ。遊べない、遊ばない。生活環境があったからだ。


教育の基本 1 あれから40年、母親の願いはどうなった

 進路相談会での母親の発言がずっと私の記憶に残っている。


「子どもが健康で、人様に迷惑をかけないように、少しだけ勉強ができて、友だちと仲良くやっていければそれ以上のことは望みません。」


 実直な母親のすなおな考えだけによく私に伝わってきた。


 健康で人に迷惑をかけず。仲間と仲良く生活でき、少しだけ勉強ができる。納得。これこそ義務教育を受ける側からの「教育の基本」ではなかろうか。


 1976年(昭和51年)時代の一般市民の教育に対する願いであった。
 このごく普通の一般市民の「教育の基本」を踏みにじっていくことになる。


 あれから40年、健康を害する子ども、他人に迷惑をかける子ども、仲間の誰かをいじめる子ども、勉強から逃避していくこどもと。40年の間に親の考えも教員の考えも社会の環境も大きく変わってしまった。


 教育を受ける側の「教育の基本」を壊していったものは何であったのか。


 難しいことは分からない。教育を受ける側からの願いに素直に耳を傾けて、親の教育に対する願い。これを教育を受ける側の「教育の基本」と定義して整理してみたいと思う。


 過去において、日教組(日本教職員組合)の幹部や文部省(現文科省)の幹部、そして教育にかかわった政治家の今だから言える発言を多く期待している。 あまり期待はできないが。


 過去に教育を受けた人、現に教育を受けている学生やその親たちの生の声を多く聞きたい。それも教育を受ける側からの「教育の基本」の参考資料としたい。
 教育を実施する為政者からの「教育の基本」と照らし合わせて、その相違点を見ることによって戦後教育の問題点が浮き彫りにされてくると考える。


 国民が素直に考える「教育の基本」の姿をまとめたい。


 敗戦の年、私は小学校3年生であった。


 戦前の教育も戦中の教育についても全く分からない。だから、敗戦1945年(昭和20年)を境にして教育が大きく変わったと言われても理解することがとても難しい。
 辛うじて両親や地域の高齢者、そして教職についてからの先輩たちの言動によって間接的に理解するのが関の山である。


 地方の教員養成学部を卒業して、地方の教員として教育にかかわった体験から今(戦後)の教育の事実を記録し、多くの戦前を体験した人たちの語りに耳を傾けて、敗戦を境にして教育の基本の何が変わったのかを学習していきたい。


 学習の目的は別にない。ただ調べてみたいので自由に調べ自由にまとめる。まあ、できることならこれからの教育についての提言の一つもできれば幸いである。


 私の教育についてのスタート点は、「日本国憲法」と「教育基本法」である。つねにこの2点を原点として、学習を深めていくことにする。