yukemuriのブログ

コント(掌編小説),いろはカルタ随想、江戸川柳色は匂へ、花かるた色は匂へ、趣味の5・7・5アラカルト俳句と川柳。

新しく「江戸を見れば」265年の整理に取り組んでいます。

つぶやき 108   蜘 蛛 の 糸

 証人喚問をラジオで聞きながら、随分と以前に読んだ芥川龍之介の蜘蛛の糸の一場面を思い出した。


「或日の事でございます。お釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。・・・すると地獄の底に、犍陀多と言ふ男が一人、外の罪人と一しょに蠢いてゐる姿が、御眼に止まりました。・・・」


 頭のない尻尾がなりふり構わず蜘蛛の糸にしがみついて地獄からの脱出を図ろうとしている姿に見えて体の中を冷たい涙が流れた。


 証人喚問と言えば、私が41歳の時のダグラス・グラマン事件の日商岩井の副社長が宣誓書にサインするときに手が震えて字が書けなかった映像を思い出す。


 「あれが俺のおやじだったら。」と思うと何ともやりきれない気分で証人喚問の映像に見入った。


 あれから40年、平成30年の佐川氏の証人喚問を見た。


 40年前の証人喚問の感動は何から来たのか。それに比べ40年後の証人喚問の無感動は何なのか。


 覚悟の嘘をつくために手が震えて宣誓書にサインができない。


 一方、覚悟の「尻尾」になって、黙秘を貫き通すことに徹すれば、淡々と平常心で事が運べるのか。


 もう既に書き換えや改ざんは当たり前のことになったのであろう。
40年の間に日本人の価値観や道徳心は変えられてしまったのであろうか。


 さて、蜘蛛の糸は、犍陀多の足元で切れるのか、頭の上で切れるのか。
彼は、地獄を脱出できるのか、それとも地獄に真っ逆さまに落ちていくのか。


 お釈迦様はどのようにお考えなのだろう。


 尻尾に徹することは、他人の罪をわが罪として、その先に地獄からの脱出を図る計画で、人の生き方としてはおお恐れたことで、自分が請け負わなければならい罰の何百倍の罰を覚悟しなければならない。
 相手に罪をなすり付けた人はその後の一生を自分の罪の何百倍もの罪の意識を背負う罰を受けることになる。


 まだ若くて元気のよい時は罪の意識も罰の意識も身体に影響を与えることが少なく生活していけるが、人生の最晩年、遊行ライフに入ってからは過去の生き様が重くのしかかってくる。


「どう生きるかは、すべてあなた次第である。」


私は、あなたの生き方をただ見つめるだけである。


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つぶやき 107   平成ダンチョネ節

訴追 訴追で   喚問くぐり   日本の誇りをネ 
潰します     ダンチョネ


佐川さんが    日本の政治   世界の人がネ
見ています    ダンチョネ


さすが東大    佐川さんは   嘘も方便ネ
お釈迦になる   ダンチョネ


日本の忖度    アメリカ様よ  拉致の問題ネ
無関心      ダンチョネ



 民主主義も憲法も死んだ。これからの日本国家はどの道を進むのか。


風呂に入ってダンチョネでも歌って一杯飲むか。やりきれないね。
今の政権に憲法問題も教育問題も語る資格はない。


「あせらず。あてにせず。あきらめず。」に生きるしか手はない。


あせるとイライラして精神によくない。あてにすると当てが外れたときに腹が立つ。あきらめると無気力になって生きる力がわいてこない。


参考 「お釈迦になる。」=物事が壊れるとか、使い物にならなくなるといった意味で使われることが多い言葉。本来は阿弥陀仏の像を作るつもりだったのが手違いで釈迦像を作ってしまい、そんなところから作り損ねた不良品や使えなくなったものを指して「お釈迦になった」という表現になったという由来があるようです。



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 遊行ライフ十人十色の生き方

江戸川柳 色は匂へ  「ち」の3 地女(ぢおんな)4 乳

地女にびれつくむす子高がしれ   大胆に金を使えよ。色道を極めれ。


参考 地女=素人女、地ものともいう。びれつく=色気を出す。でれでれする。


「ち」の4 乳


かりた子に乳(ち)さがされてちぢむなり  かあさんじゃない。姉さんだよ。くすぐっ
                     たあ。


乳の黒み夫に見せて旅立たせ      分かりましたか。了解。


いい縮み嫁の乳首がすいて見へ     大胆な嫁だ。でも、いい縮だ。



元禄前句附 13 (前句)其方(そなた)次第とうちもたれ居る


こそぐれば靨(えくぼ)のひづむ笑泣き 其方(そなた)次第とうちもたれ居る


 私の気持ちは決まっています。あなたのにえきらない態度がうらめしい。くすぐってもあなたの嘘がわかるのよ。泣き笑いしながらしなだれかかるいじらしさ。


元禄前句附 14 (前句)くはぬ鑷子(けぬき)も淋しさの伽(とぎ)


重けれど嬉しき人の膝枕 くはぬ鑷子(けぬき)も淋しさの伽 


参考 くわぬ鑷子=かみあわない毛抜き。伽=たいくつを慰めること。


 膝枕で耳かきや髭抜きは江戸時代の男女の最大の楽しみであった。頭の重さをしっかりとうけとめながら慰みのひと時を過ごす。



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江戸を見れば 100   赤穂浪士討ち入り事件

 1702年元禄15年壬午(みずのえうま) 将軍 綱吉、時の権力者、老中上座の柳沢吉保。日本国の人心は乱れに乱れていた。


 大坂の男伊達五人男処刑。旗本某偽印で町人から借金を斬罪。犬を殺した馬喰、切腹。勤務なしの京町奉行某を罷免、賭博犯を処罰、旗本3人斬首、18人を遠流。農民と商人38人を処罰。


 そのような社会状況の中、12月15日の早暁4時ごろ、赤穂藩元家老大石良雄ら旧藩士47人は江戸本所松坂町の吉良邸に討ち入り、義央の首を上げた。


 旧主浅野長矩の仇を討ち高輪泉岳寺の墓前に供えた。
 自首した、藩士はそれぞれ細川家のほか大名家に預けられた。
 その処分については議論があったが、翌年3月に切腹となった。


 将軍の綱吉は浅野内匠頭の即日切腹を命じた。 当時殿中での刃傷は理由の如何を問わず死罪と決まっていたのでこれは当然である。
 一方の吉良は特におとがめもなく、むしろ将軍からこう見舞いの言葉をかけられた。
「手傷はどうか。おいおい全快すれば、心おきなく出勤せよ。老体のことであるから、ずいぶん保養するように」


 武士社会の慣習からいえば、「喧嘩」が起こった際には「喧嘩両成敗」の法が適応されるので、浅野と吉良は「双方切腹」となるはずである。
 浅野内匠頭の一方的な「暴力」とみなされ、また吉良に見舞いの言葉があったのは、吉良が将軍の親戚筋に当たる為かもしれない。


 この事後処置が「赤穂浪士討ち入り」へとつながっていったと考えられる。
 ことが起きたときの最大の問題は事後処置である。事後処置を誤ると政権そのものが崩壊する恐れがある。
 幕藩開闢100年にして、政治の流れを変えていく事件であった。


 さて、森友学園の問題の決着をどうつけるかは、日本の民主主義を復活させるか完全につぶすかの岐路に立っている。正義と公正、そして使命感は政治家と官僚が身をもって示すべき道徳の基本である。



江戸を見れば 99  「遺恨、覚えたるか。」武士の面目

 1701年元禄14年辛巳(かのとみ) 柳沢吉保(よしやす)(保明)独り舞台の権力者となる。


 綱吉は12月26日に柳沢保明の屋敷に出向き、松平の家号と綱吉の名の一字「吉」を与え、徳川家の一族に準ずると面令した。
 保明の父安忠は将軍家光に数十年にわたり奉公し、保明(吉保)も20歳代から奉公し、儒学の弟子として人臣の模範として綱吉に奉公した。前例のない側用人から老中上座に異例の栄達をした。


 今も昔も政治の基本は同じである。「忖度」「賄賂」「献金」は当たり前の礼儀であった。


 今、森友問題で「忖度」が話題になっているが、政治の世界はもとよりあらゆる人間関係の中では基本的な礼儀である。問題は8億円の値引きが妥当であったのかどうかに尽きる。これしかない。


 3月に赤穂藩主浅野長矩(ながのり)が城中白木書院廊下にて高家吉良義央(よしひさ)に切りかかり負傷を負わせた。


 以後、赤穂事件の原因説が多く流布された。しかし、どの原因をとっても事件に至る要因の一つで、問題は「松乃廊下で切りつけた。」という事実に尽きる。


 事実だけをもって事後処置をした。綱吉と柳沢吉保の裁きは見事であった。江戸幕府を救った。吉保は切れ者である。


 念のために、事件に至った要因を列記してみる。
・浅野長矩の性格傾向。短気で女好き、神経質でノイローゼ気味。
・礼金と賄賂不足。
・吉良義央のいじめ、悪口(あっこう)癖。ものをせびる。塩田の技法を盗む。長矩の女妾を要求。横柄な態度で有名。


 などなどと多くの人たちが記録にとどめているが、これは浅野側と吉良側では評価が食い違い事件の要因としては面白いが、事件の核心をつくものではない。


 ここでかなり重要な証言がある。
事件現場に居合わせた茶坊主の記録。
内匠頭は「小用に立つ」といって席を立ち、大廊下を通り、「覚えたか」といって上野介に切りかかったという。
 また、浅野長矩の事情聴取で「「乱心ではありません。その時、何とも堪忍できないことがあったので、刃傷におよびました」と答えている。


 事件に至るまでの要因があったことには間違いないだろうが。直接の行動に至ったのは、武士の面目を多くの同僚の面前で潰された「一言」であったのではと、私は考える。


 なお江戸時代においては、「悪口(あっこう)は殺害同様の御制禁」となっている。


 武士の面目を潰す一言とは何であったのであろうか。



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