yukemuriのブログ

コント(掌編小説),いろはカルタ随想、江戸川柳色は匂へ、花かるた色は匂へ、趣味の5・7・5アラカルト俳句と川柳。

新しく「江戸を見れば」265年の整理に取り組んでいます。

つぶやき 88  種なしブドウ

 沢山の種類の巨峰が出回っている。県内産の安心院の巨峰、豊後高田、中津とそれぞれに少しずつ風味が違っている。
県外からも福岡産の黒木のブドウ、熊本産、長野産と各地から巨峰が入ってくる。


 どれもおいしく少しずつ風味が違うのが面白い。


 近ごろのブドウはほとんどが種なしのブドウである。
 種がないので気持ちよく食べていると時に種に出くわすときがある。


「おお、種だ。」


 何となくほっとして、種を手に取って眺めてみる。


 中には、種なしブドウと書いていて最初の一粒から種に出くわすと


「なんだこれは。」と言ってしまう。


 そして最後の一粒まで全部種に出くわすといい加減な広告に「なんだこれは。」を連発してしまう。


 種なしと書いていても、全くの種なしの時は物足りない。一つ二つは種に出会いたい。


 自分の癖を面白く内省し、みんなはどうなんだろうと思いながら種なし巨峰をつまんでいる。平和な一日である。幸せですね。


江戸を見れば 43  佐倉宗吾事件

 1645年 正保2年己酉(つちのととり)徳川家康の孫娘和子の娘、家康のひ孫の女帝が誕生して15年間在位した天皇を退位した。御光明天皇の3年目、時の将軍は家光(23年目)、時の権力者は大老の酒井忠勝であった。

 この年に佐倉藩領で百姓一揆が頻発した。農民の窮状を見かねて因旗郡公津村の名主、佐倉宗吾、本名は木内惣五郎が将軍に直訴して妻子とともに処刑されるという事件が起こった。

 当時の直訴は罪が重く当人だけではなく家族にまで刑罰が及んだ。
この事件はその後、義民として伝説化された部分が多く。事実として確認できることが少ないようである。

伝説の一つに、処刑場で、怖がって泣く幼い妹のウメに兄の長松が

「こわくねえぞ!アンちゃんを見ろ!」

と言って、眉毛を下げて舌をペロっと出した。長松は12歳、ウメはまだみっつ。長松は普段から妹のウメが泣くと、いつもこうしてベロを出して笑わせてきた。長松はベロを出したまま、槍に突かれて死に、見ていた村人達は、泣きながら笑い、笑いながら泣いたと。

また、妻と子供たちは処刑されずに親戚預かりになったという説もある。


 後に村人は彼を徳として祠を建て祭った。それが宗吾社であると。


 2月には高知藩で庶民の踊りや相撲を禁止した。風呂屋に女を抱えて客を宿泊させることを禁止。7月には江戸近郊に盗賊や無頼の徒が横行するので辻番所を各所に設置して、規制を厳しくし、守らない風俗不良の者を切り捨てることを指示した。


 江戸は落ち着きを見せながらも、一方で厳しい弾圧を繰り返して幕藩体制を維持していた。



つぶやき 87   年寄りの冷水

 何かにつけて、家内から「歳なんだから新しいことには手を出さないで、のんびりと健康に気を付けてゆっくりとね。」と、よく言われる。
 自分でもそうは思うのだが、すぐに新しいことをやってみたくなる。そんなに長くは続かない。すぐに別の新しいことに挑戦している。


 80歳を記念して、遺言のつもりでホームページを立ち上げた。
 Yukemuriのブログに投稿した中から、掌編小説を中心に俳句とエッセイを添えて月1回の更新を目指して、3年を目安にまとめて終わりにしようと考えている。


「できるホームページHTML&CSS入門」定価:本体1,580円+税
最初のページから一つ一つクリアして1ヵ月ほどかけて2017年7月7日に完了した。


 ホームページに挑戦して、注意深さがよくなった。点一つ間違っても動いてくれない。初めから終わりまで注意深く気長にチェックする習慣がついた。


 クリック一つで一瞬に画面が変わる所が面白い。


 ホームページのタイトルは「遊行ライフ」である。


 青春・朱夏・白秋の時代を過ぎて、玄冬の時代真っただ中、75歳ぐらいからの時代を遊行期というそうである。旅の中で生涯を閉じた。釈迦の生き方を理想として遊行の生活に入る。


 行雲流水(一点の執着なく物に応じ事に従って行動すること)の遊行ライフを目標に少しでも近づきたい。無理なことだが。


 Bingで「遊行ライフ」と検索するところまでできた。GooglやYahooででも検索できるようにしておこうかなと迷っている。


花かるた色は匂へ 「く」の3 栗の花(夏)

栗の花落ちて錆びたるごときかな   保田ゆり女


        季節の花300より

   栗の花こゝだ散り敷きわが住める   片岡奈王


   

           季節の花300より


 栗の花は遠くから眺めるのがいい。栗山に近づくと栗の花の匂いですぐ
にわかる。独特の強い匂いだ。目立っているのは雄蕊で、めしべは普通雄
蕊の穂の下に3個ずつつきこれが毬になる。


 落ちた実が石のようであることから、小石を意味する古語「くり」から
この名になったらしい。



江戸を見れば 41 消防隊編成 42 芭蕉、伊賀上野赤坂に生まれる

 江戸を見れば 41 消防隊編成


 1643年 寛永20年癸未(みずとひつじ)2月に私鋳銭、3月に田畑の永代売買を禁止した。現実には質入れなどによって田畑の移動が行われ、地域によっては永代売買も行われていた。
 火災の頻発に対して、まずは大名火消しが編成された。消防隊編成の初めである。
 江戸が大都市として急速に発展していき、それに伴って木造建築が密集して自ずと火災の発生が多くなった。江戸の火事は大火災として広がっていく。


 そこで先ず、武家屋敷を中心とした消防隊として、大名火消しが編成された。大名の石高に応じて消防士を出すもので四人の大名が一隊を組み、一万石に対して30人の火消しが決められた。隊は10日ずつで交代した。
 その後徐々に、幕府直轄の定火消や町の自治としての町火消が編成されて消防の組織が形成されていった。


 江戸を見れば 42 芭蕉、伊賀上野赤坂に生まれる


 1644年 寛永21年・正保元年(12・16)甲申(きのえさる)
 西鶴の誕生から遅れること2年、芭蕉が伊賀上野赤坂にて誕生。その時、西鶴や芭蕉に影響を与えた松永貞徳73歳、西山宗因39歳であった。芭蕉より9年遅れて、近松門左衛門が生まれ江戸文学の礎を築いていく。


 忘れてはならない出来事として、この時期に中江藤樹が朱子学から陽明学に転向した。この思想が後の明治維新に繋がっていく。
 

松尾芭蕉=伊賀国阿拝郡(あべのこり)小田郷上野赤坂(三重県上野市赤坂町)、または同郡柘植郷に、松尾与左衛門の二男として生まれる。幼名を金作、通称を甚七郎と伝える。

 父の身分は無足人(むそくにん)(地侍級の農民)級かと言われている。兄半左衛門(元禄十四年没)の他に姉一人・妹三人があった。(日本文学全集、松尾芭蕉編より)