証人喚問をラジオで聞きながら、随分と以前に読んだ芥川龍之介の蜘蛛の糸の一場面を思い出した。
「或日の事でございます。お釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。・・・すると地獄の底に、犍陀多と言ふ男が一人、外の罪人と一しょに蠢いてゐる姿が、御眼に止まりました。・・・」
頭のない尻尾がなりふり構わず蜘蛛の糸にしがみついて地獄からの脱出を図ろうとしている姿に見えて体の中を冷たい涙が流れた。
証人喚問と言えば、私が41歳の時のダグラス・グラマン事件の日商岩井の副社長が宣誓書にサインするときに手が震えて字が書けなかった映像を思い出す。
「あれが俺のおやじだったら。」と思うと何ともやりきれない気分で証人喚問の映像に見入った。
あれから40年、平成30年の佐川氏の証人喚問を見た。
40年前の証人喚問の感動は何から来たのか。それに比べ40年後の証人喚問の無感動は何なのか。
覚悟の嘘をつくために手が震えて宣誓書にサインができない。
一方、覚悟の「尻尾」になって、黙秘を貫き通すことに徹すれば、淡々と平常心で事が運べるのか。
もう既に書き換えや改ざんは当たり前のことになったのであろう。
40年の間に日本人の価値観や道徳心は変えられてしまったのであろうか。
さて、蜘蛛の糸は、犍陀多の足元で切れるのか、頭の上で切れるのか。
彼は、地獄を脱出できるのか、それとも地獄に真っ逆さまに落ちていくのか。
お釈迦様はどのようにお考えなのだろう。
尻尾に徹することは、他人の罪をわが罪として、その先に地獄からの脱出を図る計画で、人の生き方としてはおお恐れたことで、自分が請け負わなければならい罰の何百倍の罰を覚悟しなければならない。
相手に罪をなすり付けた人はその後の一生を自分の罪の何百倍もの罪の意識を背負う罰を受けることになる。
まだ若くて元気のよい時は罪の意識も罰の意識も身体に影響を与えることが少なく生活していけるが、人生の最晩年、遊行ライフに入ってからは過去の生き様が重くのしかかってくる。
「どう生きるかは、すべてあなた次第である。」
私は、あなたの生き方をただ見つめるだけである。