yukemuriのブログ

コント(掌編小説),いろはカルタ随想、江戸川柳色は匂へ、花かるた色は匂へ、趣味の5・7・5アラカルト俳句と川柳。

新しく「江戸を見れば」265年の整理に取り組んでいます。

つぶやき 99  芭蕉は「野ざらし紀行」の旅で大変化

 41歳の8月中旬に門人苗村千里(ちり)を同行して野ざらし紀行の旅に出た。


 旅のはじめに、富士川のほとりにさしかかった時、三つばかりの捨て子がいかにも哀れげな声で泣いている。芭蕉はこれにどのように対応したのか。この体験が芭蕉の生き方に大きな影響を与えたと考える。


『この小萩を吹く冷たい秋風に、もろい命の今宵のうちに散るか、あすはしおれるだろうかと、ひとしお哀れで、たもとから食べ物を取り出し、投げて与えて通り過ぎようとした
折の句、


 猿を聞く人捨子に秋の風いかに (猿の鳴き声にはらわたをしぼる詩人たちよ。秋風に泣くこの捨て子の声をなんと聞きたもうや)


 それにしても、一体どういうことなのか。お前は父に憎まれたのか、母にうとまれたのか。いやいや、父はお前を憎みはすまい。母はお前をうとみはすまい。ただこれすべては天の命であって、お前の生まれついた身の不運を、泣くほかはないのだ。』


 少し長くなったが、芭蕉の人生観がよく出ているので引用しました。


 江戸時代の命についての一般的な考え方が「これすべては天の命であって、お前の生まれついた身の不運を、泣くほかはないのだ。」と考えてよいのか、芭蕉の人生観としてとらえるべきか考えるところである。


 野ざらし紀行は芭蕉にとっての「遊行ライフ」の始まりであり、釈迦が旅に生きたのと重なり、釈迦と芭蕉の共通点を見ることができる。


http://www.ctb.ne.jp/~bonta108/  「 遊行ライフ」
https://conte55.blogspot.jp/2017/12/blog-post.html「ショート・ショート」




江戸を見れば84  芭蕉43歳  井原西鶴好色五人女刊行

 1686年貞享3年丙寅(ひのえとら)9月に旗本奴の集団の大小の神祇組の200余人を追補し、その首領11人を斬罪に処した。無頼の少年たちが模倣して治安を阻害するようになったため。
 いつの世も同じような手の付けられない若者の集団が現れて来る。


 西鶴、好色五人女に続いて、好色一代男も刊行。近松門左衛門は「出世景清」大阪竹本座で初演。町人の間では雑排(遊戯的な俳諧)の「前句付け・冠付け」が流行る。


 前句付け、「ならぬことかな、ならぬことかな」
      こちとらはおよばぬこいのほそづくり


 冠付け 「となりから」
      酔ふ紅梅のかきねかな


 賞金がかけられている。後の川柳につながっていく。


 芭蕉43歳の18句より3句紹介


古池や蛙飛こむ水のをと               芭  蕉


 静寂を破る水の音。「蛙鳴く」という伝統的発想を「蛙飛ぶ」にしたところが新しい。


名月や池をめぐりてよもすがら            芭  蕉


 中秋の名月が池に映える。よもすがら徘徊し佳境に酔う。


月雪(つきゆき)とのさばりけらしとしの昏(くれ)  芭  蕉


 雪月花の佳興を追いもとめた1年であった。ふと顧みれば変わることのない憂いにもにた歳の暮れであるよ。



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江戸を見れば83  芭蕉42歳 芭蕉の俳諧町人の間で流行

 1685年貞享2年乙丑(きのとうし)大奥では綱吉の母桂昌院が権勢をふるい、綱吉は側用人を増員して幕政のゆるみが現れてきた。


 芭蕉は前年の8月中旬に「野ざらし紀行」の旅に出て、9月8日に伊賀上野に着いて数日逗留して、大和・吉野・山城を経て月末に美濃大垣に至る。初冬に熱田に入り、名古屋へ。12月25日に伊賀上野に帰郷して越年する。
 この後、名古屋から木曽路、甲州路をへて月末に江戸に帰着する。9か月間の「野ざらし紀行」の旅であった。


 この旅で芭蕉の俳句が深みを帯びてきたように思う。幽玄の境地へ一歩踏み込んだ芭蕉の人生観を感じる。


 芭蕉42歳の28句より3句紹介


春なれや名もなき山の薄霞(うすがすみ)   芭  蕉

 いよいよ春が来た。名も知らぬ山々に霞がたなびいて見える。


山路来て何やらゆかしすみれ草(ぐさ)    芭  蕉

 山路を超えてきてすみれの花を見つけた。わけもなく私の心をひきつける。一息入れますか。


  もらふてくらひ、こふてくらひ、やをらかつゑもしらず、としのくれければ


めでたき人のかずにも入(いら)む老のくれ   ば せ を


 もらって食い、乞うて食いなどして、歳末になってしまった。この貧と老、めでたい話ではないが、それも私が選んだ道、人並みに新年を迎えることにしよう。


これまでの投稿資料をホームページの形で整理してみました。
http://www.ctb.ne.jp/~bonta108/





江戸を見れば82  芭蕉41歳 大老堀田正俊刺殺される

 1684年天和4年甲子(きのえね)武断的傾向もった堀田正俊は文治的立場をとる綱吉と相容れず多くの批判を受けていた。
 8月に江戸城中にて従兄弟の若年寄の稲葉正休の私怨のために刺殺され、正休もその場で惨殺される。
 この事件の後は大老・老中の存在は形式的となり、綱吉は側用人を通して文治的政策を推進していった。時の権力者として側用人の存在が続く。


 8月中旬、門人の苗村千里(ちり)を同行して「野ざらし紀行」の旅に出る。41歳の32句のなかより3句紹介。


出立吟
  
野ざらしを心に風のしむ身哉   芭  蕉


 風雨に晒されている野山の白骨が心に浮かぶ。覚悟して旅に出ようとす
る我が身に秋風がしみいることよ。


しにもせぬ旅寝の果てよ秋の暮   芭  蕉


 覚悟しての旅立ちであったが、幸いに命をつないで旅寝を重ねて暮秋を迎えた。


年暮(くれ)ぬ笠きて草鞋はきながら    芭  蕉


 人々は年の暮れで忙しく働いているが、この自分は笠をつけて草履をはいたままである。故郷の年の暮れの郷愁をしみじみと味わうことであるよ。



江戸を見れば81  芭蕉40歳   実母郷里で没

 1683年天和3年癸亥(みずのとい)6月20日に実母が郷里で死去。享年不詳。愛染院に葬る。知友や門人らの喜捨によって芭蕉庵が再建され新芭蕉庵に入る。


 八百屋お七を火刑に処する。京の大経師(だいきょうじは、経巻・仏画などを表具した経師の長で、朝廷の御用をつとめたもの。)の妻おさんと手代茂兵衛が密通で処刑される。井原西鶴や近松門左衛門の浮世草子や浄瑠璃に取り上げられる。


 芭蕉40歳の2句


清く聞(きか)ン耳に香焼(こうたい)て郭公(ほととぎす)   芭  蕉

 耳に香をたきしめて浄め、清く涼しくほととぎすを聞こう。季語は「ホトトギス」で夏。香をたくのは不浄を去り、浄めるため。


あられきくやこの身はもとのふる柏(かしは)    芭  蕉

 再建なった芭蕉庵で屋根に降りしきるあられの音をしみじみと聞きながら、新しい草庵に居ながら冬木にすがる柏のように変わりばえしないで時を過ごしていることだ。季語は「あられ」で冬。
 参考、柏は若葉が芽吹くまで古葉が枯れながらも落ちずに初夏に散る。


 「花の美」を鑑賞するのにその美しさについていちいち分析して鑑賞することはない。「花の色」「花の香」「花の姿」などを分析することなく直感的に「ああ、美しい。」と思う。
 それと同じように芭蕉の俳句も丸ごと鑑賞する。これまで、すこし「軽み」「侘び」「さび(寂)」「しおり」「細み」「不易流行」などに少しこだわり過ぎたようである。
 これからはもっと直感的に芭蕉の俳句を鑑賞することにしよう。



  作品の整理がすこしずつ進行しています。80代の「遊行ライフ」の〆。