yukemuriのブログ

コント(掌編小説),いろはカルタ随想、江戸川柳色は匂へ、花かるた色は匂へ、趣味の5・7・5アラカルト俳句と川柳。

新しく「江戸を見れば」265年の整理に取り組んでいます。

花かるた 色は匂へ 「ふ」の6 芙蓉(秋)

     紅芙蓉色淡く咲き濃ゆく散り   星野立子


   
          季節の花300より


     白芙蓉芯まで白く開きけり   杉浦冷石


     

          季節の花300より


   フヨウの花言葉は、「繊細な美」「しとやかな恋人」


 フヨウの種の名称「mutabilis」には変化しやすいという意味があります。フヨウの八重咲きの種は、朝の咲き始めは白、昼間はピンク、夕方には紅色に花の色を変えることから、酔って顔が赤くなることにたとえて酔芙蓉(スイフヨウ)と呼ばれます。

 昔から、「美しい人のたとえ」に用いられている花で、美しくしとやかな顔立ちのことを「芙蓉の顔」という。

「酔芙蓉(すいふよう)」芙蓉とほとんど同じ形の花だが、朝に開花したときは白花で、夕方になるにつれてだんだん赤くなるという、とてもおもしろい花。”酔っぱらって赤くなった”とのことでこの名前になったらしい。

 ピンク色の「芙蓉」を夕方に見ただけだとふつうの「芙蓉」と「酔芙蓉」は見分けがつきにくいが、朝、白かった花が夕方ピンク色になっていれば、それは「酔芙蓉」かもしれない。




江戸を見れば 60 芭蕉19歳  記録に残る最古の作品

 1662年寛文2年壬寅(みずのえとら)


 春やこし年や行けん小晦日(こつごもり)   宗 房


     季語は小晦日(師走29日)で冬。


 今日はまだ小晦日なのに立春となった。こんな場合でも春が来たといってよいのであろうか。それとも年が去ったというべきか。暦の上でもまれにある年内立春をとらえた一句である。


 実に素直に伝統を踏まえた一句である。
 俳諧の伝統として過去の作品を素材にいわゆる本歌取りの手法が作法の伝統であった。
 古今集の「年の内に春は来にけりひととせを去年(こぞ)とやいはむ今年とやいはむ」
 伊勢物語の「君や来し我や行けむおもほえず夢かうつつかねてかさめてか」
 上記二首に思いをはせて小晦日という生活の関心事を一句にまとめた。
貞門俳諧の伝統的な一句である。


 この年の1月に京都大火、皇居・上皇御所炎上。幕府は3月に京都方広寺の大仏殿を破壊してその金銅の大仏を鋳造して銅銭にした。それが文銭といわれる寛永通宝である。
 これは原銅の不足だけではなく、方広寺は秀吉から豊臣家に由緒ある寺であったことも一因であったろう。


 芭蕉19歳の俳句から51歳で没するまでの生涯の俳句を通して芭蕉の俳句の変化の様子を調べてみよう。


江戸を見れば 59 鎖国のもとで特権貿易  芭蕉18歳

 1661年万治4年辛丑(かのとうし)4月25日寛文元年の3月3日に例年通りに長崎のオランダ商館長が参府して将軍に謁見した。その時に新しい条項が取り決められた。
 目的は鎖国のもとでも幕府が特権貿易商人を通じて利益を管理・統制することが目的であった。


 11月には見台所(将軍正妻)の費用を500両増額し、年額1000両とする。
 12月には、見物の芝居物は堺・葺屋・木挽3町に限定し、町中での勧進相撲・滅多的(めったまと)を禁止。勧進能は町年寄の了解を必要とした。
滅多的=盛り場で野師などが目隠しさせて射させる的矢のこと。


 芭蕉18歳、常に蝉吟の側にいてお伽(遊び相手)の少年時代から成人してからも学問や武芸や俳諧の相手をつとめた芭蕉は蝉吟の俳諧の場にも当然参加することができた。


 俳諧の原点は言語遊戯であるから俳諧を楽しむためには複数の人間が必要であった。当時の藤堂家の家臣の中には俳諧に名を連ねる人物はいなかった。


 芭蕉が唯一の蝉吟の話し相手であった。その関係で芭蕉も蝉吟の宗匠である季吟の教えを受けることになる。芭蕉俳諧の流れは松永貞徳、北村季吟そして芭蕉。


 言語遊戯である俳諧は、社交の場となり談笑の場となった。そのような環境の中で芭蕉は思わぬコミュニケーション力を身につけ発揮する生活がやってくることになる。


江戸を見れば 58 佐倉藩主幕政批判  芭蕉17歳

 1660年万治3年庚子(かのえね)9月28日に佐倉藩主堀田正信は、老中松平信綱らの政治姿勢を批判して上書を提出し所領の返上を申し出る。それほどに天下の人民は疲弊し武士は困窮していた。


 藩主堀田正信は11月に改易される。


 芭蕉は仙気(せんき)という持病を持っていた。下腹部に発作的に激痛が繰り返し起こる。癪持ち。現代で言うならば胆石症や尿道結石症があったのではなかろうかと思われる。


 芭蕉が仕えていた藤堂新七郎、当時の藩主、藤堂良精(よしきよ)の嗣子藤堂主計(かずえ)良忠、俳名蝉吟(せんぎん)、以後蝉吟と呼ぶ。


 蝉吟の二人の兄が早世して、蝉吟が嗣子と定められたが、その蝉吟も25歳で没し、その弟、良重も嗣子と定められたが家督を継ぐことなく24歳で没した。更に5男の良兼も早世した。


 藤堂良精の子どもたちはいずれも健康に恵まれなかった。


 蝉吟の最初の妻は藤堂玄蕃家の娘で蝉吟18歳の年に没し、藤堂釆女家の娘を二度目の妻として迎える。二度目の妻の子どもが探丸(たんがん)俳名、本名藤堂良長(よしなが)で藤堂七郎家の跡を継ぐことになる。


 探丸は芭蕉を深く敬愛し晩年芭蕉が帰郷した際は特別な敬愛をよせて芭蕉を迎えた。
 蝉吟と探丸の親子二代にわたる人間関係の中で芭蕉の人生は充実した一生を送ることができた。


 芭蕉の人柄と能力の高さが伝わってくる。仙気の持病が気に入った。


花かるた 色は匂へ 「ふ」の5 藤袴(秋)

   藤袴手に満ちたれど友来ずも  橋本多佳女


   

       季節の花300より


      藤袴何色と言ひ難かりし   栗津松彩子


   

          季節の花300より

   フジバカマの花言葉は、ためらい、遅れ

花名の由来

和名の「藤袴(フジバカマ)」は、藤色の花を咲かせ、花の形が袴(はかま)に似ていることに由来します。

花言葉の由来

花言葉の「ためらい」「遅れ」は、フジバカマの小花が少しずつ咲いていくことにちなむといわれます。

 細い枝先に藤色の小さな花をたくさん集めて咲くフジバカマ。河原などに自生し、古く日本人に愛されてきたフジバカマは秋の七草(ななくさ)の一つです。現在はその数を減らし、環境省のレッドリストで準絶滅危惧種に指定されています。


 全体に桜餅のような香りがする。平安時代の女性は、これを干した茎や 葉っぱを水につけて髪を洗った。また、防虫剤、芳香剤、お茶などにも利用した。葉が3深裂するのが特徴。ほとんど別の葉っぱのように見えて、 元は一つの葉っぱ。 


 秋の七草 女郎花(オミナエシ)尾花(オバナ ※ススキ)桔梗(キキョウ)撫子(ナデシコ)藤袴(フジバカマ)葛(クズ)萩(ハギ)