yukemuriのブログ

コント(掌編小説),いろはカルタ随想、江戸川柳色は匂へ、花かるた色は匂へ、趣味の5・7・5アラカルト俳句と川柳。

新しく「江戸を見れば」265年の整理に取り組んでいます。

つぶやき5 落語 男と女

   義理が上から下に向かってくる封建のモラルであり掟であるならば、人情は下から上に対決していく、横の人間関係を結ぶ相互扶助の力である。


  義理がどちらかというと悲しい物語に発展するのに対して、人情はあたたかい物語をつくりだす。ここに落語の魅力がある。同じ恋愛の問題を扱っていても、西鶴の「お夏清十郎」の物語と落語の「宮戸川」の話ではずいぶんと変わってくる。


  お夏は積極的に自分の生き方を押し通して、当時では許されない「恋愛の自由」の問題にぶつかり「狂乱」「出家」という形で結末を迎える。


  一方、落語では、物分りのよい粋なおじさんが登場して人情味豊かに丸く収める。
   気の弱い半七と勝気なお花が、ある晩、締め出しを食う。半七はおじさんの家に行くことになるが、お花は行くところがないので半七についていく「ついて来ちゃあ困るよ」「いいじゃないのよ」二人がおじさんの家へ入って行く。あわて者のおじさんが駆け落ちと間違えて二人を二階に閉じ込めてしまう。
「ばあさん、梯子を取ってしまいな」ふとんは一組しかない。真ん中に帯を縦に置いて半七、お花は朝を迎える。いきなおじさんが両親を説得して丸く収まる。


  封建のモラルを人情で下の方から崩していくところに、そして、そんな生き方を示すところに落語の面白さがある。




コント10 素晴らしき脱税

 ここは大分県の南の端、いわしと芋の産地K町である。K町におろやんとしめやんという実に仲のよい二人のおばあさんがいた。どうしてこの二人、仲がよいかというと、ちょっとしたわけがあった。


おろやんもしめやんも、朝から晩まで、孫の守りをして、町中を歩きまわって一日を過ごしていた。おまけに、二人とも実によく屁をひるくさい仲であった。


 屁をひるといっても、おろやんとしめやんの屁は、気持ちのよい、豪快な屁であった。妙な臭いを発散させない、無色無臭のいい音の屁で、どんな偏屈な人間でも声を出して笑わずにはいられない。


 屁をひるタイミングが実によい。


 今日も朝から孫をおんぶした、おろやんとしめやんは、海岸ぞいを散歩しながら町役場の方へと歩いていた。


 冬の寒い北風が吹きはじめると、役場のコンクリートの塀に囲まれた中庭は、子守り連中にとっては恰好な場所である。朝一番、早くそこに出勤するのがおろやんとしめやんであり、役場勤めの誰よりも早く、帰りは帰りで一番最後までそこに居た。
 役場に出勤する一人一人にていねいに朝のあいさつをするのである。にこにこと実にほがらかに
「町長さんおはようございます。(プー)
まあ、どうも失礼しました。(プー)」
 来る人、来る人にこの調子であり、毎朝のことなので、みんなも慣れてしまい、かえって、プーとでない時の方が変な気持ちになり今日は体の具合いでも悪いのではなかろうかと心配するぐらいであった。


 おろやんとしめやんは、プーとやるたびに爽快な心持ちになるので、まあ、いいとしても、二人の家族の者はみな難儀をしていた。


 特に、むすこは、何とかして屁をひるのをやめてもらいたいと思っていた。そして、おばあさんの屁は、きっと、精神がたるんでいるからにちがいないと考えて、或る日、
 「おばあちゃんよ、今度から屁にも税金がかかるちゅうことじゃ、すこし気をつけてもらわにゃなあ」と注意した。


 おばあちゃんも税金と聞いて、少し体が緊張して、精神が引きしまった。すると、景気よく、プー。
 ひょっとすると、おばあちゃんは、精神がたるんで屁をひるのではなく、過度に緊張した時にこそ屁をひるのかも。


 「わしだけじゃない。しめやんだって、わしよりも大きな屁をひる。しめやんにだって上納がかかるわい」
 そう思ったおろやんは、まあ、しめやんと相談して対策を考えることにした。


 翌朝、いつものように孫をおぶって役場に行く途中で、しめやんに出合った。
 「しめやんよ、しめやんよ」おろやんは日頃よりも少し小さい声で、それでも普通の人と同じくらいな声で
 「よんべ聞いたことじゃけんど、大変な法律ができたもんよ、あのな、大きな声でゆえんけど屁にも税金がかかるちゅう話しじゃ」
 「そりゃあ、たまらんことよのう」
 「それで、しめやんよ、今日からは自由に屁もひられんぞ」
 「おろやんよ、屁をひっても、役場んしにわからにゃ`いいし、誰にもゆわにゃ、わからせんもん」
 「ほんに、そうよのう」


 納得したおろやんとしめやんは、役場の方にしりをむけて、一発大きな屁をプーとやると、役場とは反対の方向に歩き始めた。


 この日より、町の人々は、誰もおろやんとしめやんのあの豪快な屁の音を聞いた人がいないということである。
 むすこは果たしてこれで良かったのかと自問自答している。


いろはカルタ 「る」 江戸と上方

    瑠璃も玻璃も照らせば光る(江戸)
                         途中で・・・「みがけば光る」に変化

『物は違うが、光を受ければともに輝く。』
「照らせば光る」から「磨けば光る」どうして変化したのだろうか。時代の流れの中で人間の生き方が受動的から能動的に変わった時代を映し出しているのではなかろうか。


「瑠璃や玻璃」を客体とみなすか、主体とみなすかで「照らせばと磨けば」の表現に変化が起こる。
   照らされて物体は初めて光る。光が当たらないと物体は光らない。例え光が当たっても磨かれているかどうかでその光り方が異なってくる。


 人は一生のうちに何度かチャンスが訪れる。しかし、精神を磨いていなければ訪れたチャンスをチャンスとして受け止めることはできない。


    類を以って集まる(上方)

〖類は友を呼ぶ。同じ傾向をもった者どうしは自然と集まる。〗


 政党をはじめ小さなグループに至るまで、よくもまあ似たような傾向を持った者が集まるものだ。
 「馬が合う」という言葉をよく耳にするが、馬の合うものが集まれば居り心地のよい仲良し集団になること確かである。
 しかし、異質なものを排除していては組織の発展は困難になるし、やがて日本国家の衰退滅亡につながっていくだろう。
 とは言うものの異質なものは排除したくなるのも人情で、せめて小さなグループぐらいはそれに越したことはない。ただ、公的な組織においては仲良し集団では真の発展や改革はできない。身近な集団を見てもそのことが分かるし、大きくは政治の世界を見ると一目瞭然の事実である。


                           俺とおまえは   一浪仲間
                            遊びほうけてネ  さくら散る  ダンチョネ



いろはカルタ 「ぬ」 江戸と上方

    盗人の昼ね(江戸)

『盗人が夜かせぎのために昼寝をすることから、何気ないふりをして、その実目的があるのにいう。』


「盗人のたけだけしきは袴着る」平安人もうまいことを言う。
「盗人と智者の相は同じと云えり」まさに至言である。
盗人の昼寝などは、今は昔の語り草。現代は「盗人の開き直り」といった方が納得される人が多いのではなかろうか。


昼寝をするような盗人はたかが知れた小悪人、今は白昼堂々の盗みを仕事として、問題になると「国民のため」私は権力と闘うと。
国民のためなどと口が裂けても言って欲しくないな。「極一部の国民のため」と正確に言って欲しいものだ。


    糠に釘(上方)

〖豆腐に鎹に同じ(上方)
いかに意見を加えても、少しもそのかいのないこと。〗


人は他人から少々な意見をされたぐらいで変わるようなことはない。変わるどころか、反発をすることの方が多い。


  九州、特に福岡県における飲酒運転による事故は後絶たない。この傾向は全国的な問題であるが、福岡県が特別話題になるのは公務員による飲酒運転の違反がよく摘発されることによる。


 糠に釘の代表格が「酒」で次いで、「男と女」、「パチンコ」、「競馬競輪」「金銭にまつわる汚職」と続いていく。
 これらの原因は、快感ホルモンが脳から出るということで一つの病気となってしまうようだ。いったん堕ち込んでしまった場合はどのようにしてそれから脱出するか、軽度の場合は周囲の協力と本人の努力で解決できるが、重症になった場合は専門医の治療が必要になってしまう。
 そうなる前に生活習慣の改善を心がけ、正常な日常生活を志すことが基本である。



つぶやき4  落語と社会教育

 江戸時代の噺家は、さしずめ現代の社会教育主事ある。


 「あの野郎、字なんぞ読みやがって、ふてえ野郎だ」なんていう時代にあって、人間関係のあり方や新しいものの見方、考え方を啓発していった。当時の噺家がそれを意識したかどうかは知らないが古典落語に接すると何かそんな気がする。


『落語は民衆の中から生まれ、民衆によって育てられ、民衆の生活と共に今日もなお盛んな芸術である。落語は封建時代の末に発生して、次の時代<資本主義社会>を指向している。そして、未来の社会を、どう築いたらいいかということを示唆している』(加太こうじ)と、同感である。


 落語は新しい時代に向かって突進しており、下からの要求にこたえて、新しい生き方を打ち出している。恋愛の自由、親子関係、金銭、職業、身分、女性、道徳、等々と。
  以上のような意味で、現代に耐える、新しい時代を志向する新作落語が現れているか発見していきたい。
  そうはいうものの落語は面白ければいいのかも。