yukemuriのブログ

コント(掌編小説),いろはカルタ随想、江戸川柳色は匂へ、花かるた色は匂へ、趣味の5・7・5アラカルト俳句と川柳。

新しく「江戸を見れば」265年の整理に取り組んでいます。

江戸川柳 色は匂へ 「は」 母の愛

    母親はもったいないがだましよい

   父はうち母は抱きて悲しめば かわる心と子やおもうらん


「𠮟り手の愛」と「抱き手の愛」がうまく絡み合って子供は成長していくといわれるが、なかなかそうはいかない。
 親父は頑固すぎるか無関心、母親は甘やかしすぎるか口やかましい。戦後、新憲法のもとで親の生き方が随分と変わったようにある。
  それでも昭和の時代は子供が良く育った方である。地域のおじちゃんやおばちゃんとの人間関係があった。今、地域の人間関係も、親戚の人間関係も希薄になって子供が上手く育ちにくい時代になった。
 今一度、父の役割や母の役割を考えてみる時期にあるのではなかろうか。


 母親は息子の嘘をたしてやり
 母親もともにやつれる物思ひ


 娘の恋煩いであろうか、母親も娘と同じようにやつれてしまう。子を思う母親の心情はかなしいまでに透き通ってみえる。
   良かろうが悪かろうが全てを丸ごと受け入れる受容力が相手の生き方を変えるのを生まれながらに身につけているのが「母の愛」ではなかろうか。


コント13 大友吉統(義統)

 大友宗麟の嫡子、吉統(よしむね)は、吃りであった。吉統が吃り始めたのは、ちょうど満二才の誕生日を過ぎた春、一五六〇(永禄三年)の桜の花が春の風に舞い散る心の痛む一日であった。


 この日、吉統は強い風のために庭に出ることもできず、縁側で供の女と母と三人で遊んでいた。吉統は八か月より歩き始め、満一才の誕生日を迎えた時には、かなりのコトバを上手にしゃべっていた。健康で頭の良い将来に期待のかけられた優れた子どもであり父母の自慢の種であった。


 突然、轟音と共に一陣の突風が大友館をおそい、残っている花びらは一瞬にして飛散し、枯れたような桜の古木が音をたてて倒れた。


 吉統はこの突発的な事故に、体は硬直し、顔面を蒼白にして、母を呼んだ。
「おおお・・ははうえ、ここここ・・・」吉統は呼吸困難に陥り、その場に伏した。


 満二才を過ぎた吉統は人一倍、感受性の強い、心のやさしい子どもであった。春の嵐に散る花に心を痛め、堂々として立つ古木の倒壊に不安を覚えた。


 母は倹しい目つきで、鋭い口調で言った。
「あなたは、鎌倉より続く由緒ある大友家の嫡男です。これ程のことで、恐れてはいけません。しっかりしなさい」
 吉統の母は、世に伝えられている程、「生れながらに頑固で耐えがたい女」ではなかった。確かに神経質で偏屈で激怒することもある。ヒステリー性の症状持ちの女であった。


 永禄三年、四年の頃は、宗麟と妻との人間関係は最悪の事態にたっしていた。宗麟は酒と女に溺れ、神経質で潔癖感の強い宗麟の妻はヒステリー症状をたびたび起こした。


 ヒステリー症状を起すことによって、酒と女に溺れる夫に対して、耐えていたのである。封建時代に生きながら、彼女の体質や思想は現代女性の感覚を備えていた。それがかえって不幸な女性にしてしまった。


 宗麟(当時義鎮)は、遂に意を決っして、永禄五年五月一日、南の海部郡臼杵の丹生島に城を築いて移り、入道して宗麟と号し、別居生活を始めた。


 満四才になった吉統は、無口な神経質な子どもに成長していた。


 母は別居してより、ヒステリー症状を起すことが少なくなり、穏やかな生活態度に返った。吉統の吃りも日頃は、誰れにも判らない程度に改善されたが、それでも緊張すると頭を前後あるいは左右にひきつるように振るチック症状的な動作が残った。


 一五七九年(天正七年)吉統二十一才で家督をつぎ、豊後三十七万石を領した時は、一国の武将にふさわしい風格が備わっていた。


 頭のよい神経質な吉統は、安土桃山時代の武将としては、不適格者であったのかも知れない。父、宗麟があと十四、五年長命で、関が原の戦いまで生きていたなら、大友家も滅亡せずにすんだのかも知れなかった。


 大友吉統は、戦さには向いていなかった。それは、決して、肝っ玉が小さいとか、根性がないとかという意味ではなく、体質的に戦さに向いていなかった。


 幼児に受けた心の傷は、吉統の体の奥深くに潜み、過度の緊張時に随伴症状として、頭をピクツピクツと動かした。


 彼はこの吃りの随伴症状のために、三つの戦さに破れた。いや、二つの戦さに破れたと考える方が正しいのかも知れない、彼の考えが彼の決断が、誤解されずに、正しく部下の指揮官に通じていたならば、負け戦さにならずにすんだし、また、豊後武士の名を汚すこともなかった。


 第一の失敗は、天正十四、五年の島津軍の豊後侵入における戸次川の戦いに大敗したことであった。


 将軍秀吉からの、持久戦へ持ち込めという指示が吉統のもとに届いていた。吉統も持久戦に持ち込み、翌年の出陣を決意していた。
 島津軍の先制攻撃に大友軍は一瞬緊張し、吉統の決断を待った。
「決戦の時がきました我が軍も一気に突撃してよいですか」
 吉統は緊張した。もうすでに決意していた自分の意志とは反対に引きつるように、頭をコツクリとたてに一振りした。
 力をためていた大友軍はいきりたって、反撃に向ったが、これは島津軍の罠であった。


 第二の失敗は、天正十九年の朝鮮征伐における戦いであった。日本軍は陸戦において、快進撃を続けていた。


 第一陣の小西行長以下六将一万八千七百人は敵陣深く突進しすぎた感があった。朝鮮のゲリラ隊の蜂起によって戦は長期化の様相を示しはじめた。ついに、明の大軍が援軍を率いて第一陣の小西行長を攻めた。行長は後陣に急使を飛ばせ援軍を求めた。


 その時、大友、黒田(一万一千人)は第三陣を守備していた。
「援軍を出陣させてよろしいですか」部将は救援出陣の指示を待った。
 吉統の顔が一瞬ひきつり、あごが右に動いた。戦意おとろえていた部下達は、ノーと受けとめ退却を始めて隊を乱した。


 第三の失敗は、戦わずして破れることは分かっていた。だから、失敗というには当らないのかも知れない。吉統の最後の豊後武士としての決意であった。


 一六〇〇年慶長五年、関が原の合戦に呼応しておこった石垣原の合戦である。
 部将吉弘統幸は、天下の形勢から、徳川方が絶対有利であり、西軍に加担することを諌めたが、どうしても、頭をたてに動かさなかった。


 石垣原の戦いで破れた吉統は、常陸国(茨城県)の大名佐竹氏のもとへあずけられ、一六〇五年、慶長十年、四十八才で没した。


 ちょうどその日は、春のそよ風に、桜の花びらが音もなく、一ひら二ひらと散るのどかな平和な日であった。 



いろはカルタ 「か」 江戸と上方

    かったいの瘡怨み(江戸)

『現代では、差別用語で死語となった言葉である。醜い者の中でも、少しでもよいものをうらやむことのたとえ。どうにもならぬ愚痴をこぼすたとえ。』


 かったい(癩)の瘡怨みについての詳細は各自で調べてください。


 病気になったときや事故にあった時など「不幸中の幸い」といって自分自身に言い聞かせることがある。


 また、川柳「役人の子はにぎにぎが上手」などと、袖の下をもらえる役人を羨むことも人の心をよく表している。


 上を見ても下を見ても人の心は揺れ動くものである。


    蛙のつらに水(上方)

〖蛙の面に水を注いでも平然としていることから、どのような仕向けや責めにあっても少しも感じないこと。〗


 「ああいえばこういう男」と「ああいえばこういう女」が一時有名になったことがある。
 どんな質問に対しても自分なりの応答ができるちょっとした政治家など足元にも及ばない。そんな男にも弱点がある。「ああいえばこういう女」には、一目置いていた。
 近年急に「ああいえばこういう」人間が少なくなり、すぐに3人そろって頭を下げる姿を目にすることが多い。


      どこもここも  不祥事だらけ
       日本の国はネ  土下座する   ダンチョネ


 日本はいつから、頭を下げて謝るようになったのだろうか。「不正」が充満、「正義」が死語に。



江戸川柳 色は匂へ 「ろ」 論語とニキビ

  足音がすると論語の下へ入れ

 今も昔も同じ情景が目に浮かぶ。江戸の学習の基本は論語である。人の生き方を学ぶにはもってこいの教科書である。現代にも十分に通用する内容で満ちている。
 学習を始めたころは素直に勉強に取り組んでいただろうが、年月が過ぎてニキビの目立つ年ごろになると論語の勉強をしながら、論語とは正反対のことに関心を持ち、走ってしまう。
 足音を聞きつけて急いで、論語本の下によからぬ本を隠してしまう。このような態度を取りながらも親の意見を聞く間は可愛いものである。
  青年期を過ぎて、家庭を持てばそれなりにしっかりと生きていくようになる。



江戸川柳 色は匂へ 「い」 言名付

       言ひなづけたがいちがいに風を引き

 日本国憲法のもと、結婚の自由が認められ、親の関与が小さくなり当人同士の意思が尊重されるようになった。江戸時代は親の関与が強く、当人たちに関係なく親たちが決めてしまうことが多くあった。
 「たがいちがいに風邪を引く」ような言名付の関係であれば親の方も心配することはあるまい。
 私の知る限りでは、昭和30年代の初めまで言名付という風習が残っていた。同期の男が私の知るただ一人の言名付であった。
 女性の方に男ができて、「駆け落ち」をしてしまった。親たちは二人を取り押さえるために要所に見張りを立てた。駆け落ちの二人は、別々に男は船で女は汽車で示し合わせた目的地へ向かった。
 見張りに立った人たちは「駆け落ち」イコール二人と思い込んでいたために取り押さえることに失敗した。
 昭和の30年代に近松門左衛門の道行きを見るとは思いもよらなかったことである。