yukemuriのブログ

コント(掌編小説),いろはカルタ随想、江戸川柳色は匂へ、花かるた色は匂へ、趣味の5・7・5アラカルト俳句と川柳。

新しく「江戸を見れば」265年の整理に取り組んでいます。

つぶやき1 ダンチョネ

 ユーチューブで鶴田浩二さんのダンチョネ節を聞いて、哀調ある響きに取りつかれて、今では自作のダンチョネ節を遠慮気味に呟くように口ずさんでいます。


  朝寝朝酒  朝湯につかり  あとは書斎でネ
  昼寝する  ダンチョネ 


      別府湯煙  優しく揺れて  妻と二人でネ
  地獄蒸し  ダンチョネ


  日本大使に ケネディの娘  にくいお方ネ
  オバマさん ダンチョネ


  夏の終わりは 我が家の庭で 線香花火でネ
  思い出を      ダンチョネ


 湯けむりに囲まれた野天風呂につかって、一人の時はやや大きめな声で気持ちよく口ずさむ。風呂上がりの一杯は格別です。
                                                                                         至福の時だね。


いろはカルタ 「ろ」 江戸と上方

      論より証拠(江戸)

 『物事を明らかにするには、議論するよりも証拠を示したほうが早い。』


  現代人は、「論も証拠もくそくらえ」と生きていく人間が目立つようになった。「記憶にございません」と、徹底的に白を切る。そして、いよいよ証拠を突きつけられると、「それがなんじゃ」と開き直る。
 ずっと以前、万引きで補導された女子中学生のバックの中からタバコやコンドームが出てきたが、
「私にはなんら関わりがありません。ただ持っていただけです」と言い通したそうである。
 まさに、汚職政治家や汚職官僚と非行少年の思考パターンはおなじである。論より証拠と真剣に議論していた過去の人たちが懐かしく、純粋に思えてならない。


    論語読みの論語知らず(上方)

〖書物を読んで、言葉の上では理解するが少しもこれを実行できないこと〗


    今は、「論語読まずの論語知らず」の時代になった。社会の指導的立場にある人でさえ論語はもより道徳や人生観、哲学についての関心が薄れて、政治、経済といった実利のほうに目を向けて富や権力を志向する力が強い。
 政治、経済の根底に確かな道徳や人生観が貫かれていなければならないのに、それが欠落しているところに問題がある。
 論語の思想は「人間は、自分の努力によって向上しなければならない。人間は学問・教養を積み重ねることによって人格を磨き上げるのを怠ってはいけない」ということになる。
 この理念が見失われた社会のありようがまさに「論語読みの論語知らず」の現代社会の論より証拠である。


「論語読まずの論語知らず」から、せめて「論語読みの論語知らず」にバージョンアップして、生き方の根本に立ち返らなければならない。


いろはカルタ 「い」 江戸と上方

 子どもの時分に遊んだいろはかるたは、字を憶えるという教育的な意味もさることながら、大人になっても、つい口をついて出る文句は、いつしかその人の人生観を左右することさえある。
 いろはカルタは、その時代によって、いろいろな種類が出回るが、やはり、最後に残っているのは格言の類で短い文句の中に人生に処する知恵を持っているカルタである。
 先ず、自分が遊び、次に子どもと遊び、そして孫と遊ぶ。人生で三度楽しむことができる。
 江戸カルタと上方カルタでは少し違いがあり、同じ上方カルタでも、大阪と京都の違いも面白い。


   犬も歩けば棒にあたる(江戸)


 『犬も出歩くから棒で打たれることもある意で、しなくてもよいことをするからとんだ目に遭うこと。また、何かしているうちに偶然うまいことにぶつかることもある。』という二説がある。


今は昔、ある用事で北浜の停留所から大分行きの特急通勤バスに乗ったことがある。私の前の座席で県庁勤め風の中年男性が二人で話していた。
 「お役所仕事というものは、仕事をやりすぎても、仕事をしなくてもいけない。するがごとくしないがごとく、宮仕えとは難しいですなあ」
 もう五十年も以前の話だから、行政改革の厳しい現在はこんな夢のような話はあるまい。
 出るくいは打たれる。出すぎたくいは打たれない。出ないくいは腐る。うまいことを言うもんだ。


  一寸先は闇(上方)


〖将来のことはまったく予測できないものだということ〗 


三日先知れば長者とは、よく言ったものである。インサイダー取引なら三分先に知れば長者というところか。
人の浮き沈みは分からないもので、昨日まで羽振りよく生活していた人が、突然夜逃げをして蒸発してしまう。
 おまけにどじな泥棒がいて、夜逃げした家に空き巣に入り捕まったりして本当に一寸先は闇である。


 情報化社会の現代は、多くの問題をかなり予測できるようになったが、それでもなお一寸先は闇の部分が人生の重要事において多くある。


 人間には、二通りの生き方があるようで。先のことは分からないから現在の享楽に身を任せて浮かれて馬鹿になって生きていくか、先のことが分からないから最後まで勝負を捨てないで人生を踏ん張りぬくか。


一寸先は闇をどう受け止めるかで人間の行動が大きく変わる。


コント2 タニシどん

   タ ニ シ ど ん


 昨日の寒さはうそのように、今日は春めいた風のない日差しが窓から差し込んでいた。机の上には、首を高く突き出したシクラメンの花が四つ咲いていた。


 社員は昼食に、また、昼休みのスポーツにと部屋を出払って、一人健吉だけが妻の手作りの弁当を終わり、熱い茶をすすっていた。


 「うん、後一か月か」
近ごろ健吉はこうつぶやくことが多くなった。年が明けての一日一日がいとも簡単に無造作に過ぎて行くのをどうすることもできなかった。健吉は、この三月末日を持って定年退職の日を迎えるのである。別にこの仕事に未練があるわけでも、また、野心があるわけでもなかったが、退職の日が日一日と近づくに連れて、確かに体から力が抜けていくように思われてならなかった。


 学校を出て三十有余年、この会社一筋に、といえば格好はいいが、何度かやめて他の仕事をしたいと思いながら、とうとう定年まできてしまった。


 健吉は茶をのみ終わるとたばこに火をつけ、くるりとストーブの方に向きを変えて、プーッとたばこの煙を天井に吐き出した。


 「こんにちは、人形はいりませんかな」と、肩から白ひもでブリキのカンを下げた六十歳前後の行商人がはいってきた。
 男は、カンをあいた机の上に置くと、ポケットからたばこを取り出し火をつけた。
「ちょっと一一服させてください」と、イスに腰をおろすと健吉と向かい合った。
 「どんな人形です。」と、健吉は無愛想に一言たずねた。
 「タニシで作った人形です。私と家内と二人で作り、ひまを見ては、こうやって私が売り歩いています。去年は人形大会で、私たちの作ったタニシの人形が賞をもらいました」
 実直そうな職人気質の男のようで、自分の作った人形が賞をもらったというのも本当であろうと健吉は思った。しかし、定年退職を前にして、いまさら人形でもなかろう、買う気はもうとう見る気さえもしなかった。


 男は、二本目のタバコに火をつけた。健吉は、茶を入れ男にすすめた。
 「売れますか」
 「はい、けっこう売れましてね。病院が一番よく出ます。タニシの養殖から、人形の仕上げまで、一つ一つ根気のいる仕事です。小さいですから」
 「タニシの人形とは珍しいですな」
 「タニシという動物もかわいそうな生き物ですよ。タニシの雌は、卵をはらみ子がかえると自分の身を子に食わして子を育てる。いよいよ自分の死期が近づくと藻に子を移して、自分は自然に分解してしまう。あのかたいからもフワフワになって、水の中で溶けてしまう」
 「雄はどうなります」
 「雄は、雌のタニシが子を無事に藻に移し終わるころ、時を同じくして、いと屑のようにやせ細り、カラからすっぽ抜けて死んでしまう」


 健吉はタニシどんについての認識を改めなければいけないと思った。


 「この話は大学の教授から聞いた話で、私もタニシを養殖していますから、うそじゃありません。もっとも、私の人形に使っているタニシは死んだタニシじゃありません。死んだタニシじゃどうしてもつやが出ませんから」


 話の真実はともかく、健吉はタニシどんに深く興味を覚え、タニシドンの生き方に感激した。
 「おじさん、人形を見せてもらおうか」
 ブリキのカンのふたを開けて、ちり紙に包んだ人形をいくつか取り出した。タヌキ、船頭、おじいさんと孫娘の旅姿の三種類の人形が机の上に出された。五十円、二百円と説明がつけ加えられた。


 健吉は即座に全部買った。健吉は人形の全部が気に入った。
 ユーモラスなタヌキ、トンチのある顔をした船頭、そして悲しいまでも温かなおじいさんと孫娘の旅姿の人形。それが皆、あの悲劇の動物タニシドンから作られている。


 特におじいさんと孫娘の人形は健吉の心を打った。にゅうわな顔のおじいさんに、むじゃきな顔の孫娘が手をひかれ、これからどこへ行こうとしているのか。


 健吉は四月に一年に入学する孫の姿を思い出した。そして、五十八歳までの自分の生活を回顧した。会社のために、社会のために、家族のために自分は何をしたというのか。


 タニシどんの親は死ぬ時に言ったであろう。
 「お前たちに何も残してやることができなかった。お前たちだけが残った。お前たちも、立派な子をたくさん残しておくれよ」と。


 タニシどんの人形を見ていると、タニシの親子、タニシの夫婦に無常を感じるのである。



コント1 へ  ド

 
 初秋の風に誘われて、別府の郊外を歩いていた時のことである。


 白髪の白衣を身につけた一見医師風の老人が、松林の中から姿を現し、私に声をかけた。
「散歩ですかな、人の通らない生まれたばかりの風景の中を歩くのは好い気もちですな」
 「ええ、少し胃腸を悪くしたもんですから、こうやってぶらぶらしている  んです」
 「朝のぶらぶらが、病気には一番いいクスリです。特に胃腸病には」
 「お医者さんですか」


 いつか私は老人と肩を並べて歩いていた。一望に別府湾が朝の光に踊り、緑の中から湯煙が天にいく筋も吸いこまれていた。


 医師はぽつりと話し始めた。
 「大病院に勤めていたんだがいろいろありましたし、健康も害して、今は開業医として役にもたたない研究をしながら、ここに住んでいるんです」      
 個人的な事情は何も聞かないことにした。人間の世界に起こる事件にそれほど突飛なものもあるまいから。


 「研究といいますと」
 「気のむくままですな。昨年の暮れ、奇妙な虫を発見しまして、現在はその虫とにらめっこです」
 「奇妙な虫といいますと」
 「目も鼻も耳もない。ただあるのはからだと消化器官と生殖器官だけなんだ」
 「ほう」


 私はどんな虫を想像してよいのか見当がつかなかった。この老医師にもまだ虫についての詳しいことはわかっていないのだということは感じ取れた。


 「奇妙な虫に名前をつけましたよ。ヘドと」虫の名前から瞬間、私は想像した。
 「おう吐」その虫を見るときっとおう吐を起こすのか、その虫自身が胃腸病患者のようにおう吐を催すのか、それとも「ヘドニズム」(快楽主義)に徹したエロ的な虫であろうか。また、ベトカビ科菌のように植物に寄生し植物全体を枯らしてしまうような虫であろうか。まあいい、どちらにしても面白い皮肉のきいた名前をつけたものだ。


 ヘドと名前をつけられた虫にも興味を覚えたが、ヘドと名前をつけた老医師にもよリ親しみを感じた。


 「生命力のある虫でね。動物の肉、野菜、果物、人間が食するものなら何でも食べる。いよいよ食べ物がなくなると自分たちの排泄物を食べて生きて行く」
 まさにおう吐というのにふさわしい虫だ。
 「ところが面白いことがあるんだ。食べ物の有無にかかわらずある「ヘド」と、ある「ヘド」とが食合いを始めるんだ。すると周囲に居るヘドたちが輪をつくって勝負のつくまで見ている。勝ったヘドが相手のヘドを食い終わるとそのヘドが、その集団の中のボス的存在になってしまう」


 老医師の話をきいているうちに私はふっと、かつてヘドを見たような気がした。話を続ける老医師の顔は正義感に満ちた青年のような顔でもあり、老熟しきった仏様のような顔にも見えた。
松林を通り抜けた所に、庭園らしい広場があり、咲き残りの松葉ボタンが土にまみれて腐れかけていた。


 私は老医師に尋ねた。
 「そんなことが度々起こりますか」
 「そうだな、周期というようなものはないが、三、四か月に一度くらいかな」
 「それからどうなります」
 「どうにもならんよ。何もなかったように前と同じ生活を繰り返すだけだ」
 「繁殖はどうです」
 「増え過ぎることはない。食合いをしなくても、適当にヘドは死んで行く。その死に方が不思議なんだ。昨日まで盛んに食べていたかと思うと、今日はまったく食べなくなり、おう吐し、下痢をし、体が消滅してしまう。まるで自殺行為だ」
 「原因は」
 「皆目わからん」
 私は確かにヘドにあったことがある。
しかし、はっきりとは思い出せない。
 「ヘドの食合いや自然消滅が何から起こるものなのか。ヘドの生理なのか。ヘドの本能なのか。ヘドの社会なのか教育なのか、わからん。その辺の解明のために、今、暇をつぶしていますよ」


 庭園の向うに一軒の家が人間とは関係がないといった風に建っているのが見えた。よく通る場所だが、この家を見たのは今日が初めてのようであった。家を指差して老医師は言った。
 「よって、ヘドを観察してみませんか」


 私は老医師の誘いを丁重に断って別れのあいさつをし、右に曲がった。確かに会った。ヘドを観察に行くまでもない。ヘドは自分の中にも、自分の周リにも、無数に存在している。からだと大きな口と、消化器と、生殖器のヘド。突然仲間同士で食合いを始めるヘド。ボスヘドはどんな姿、形をしているのか、ちょっと観察してみたいような気もしたが、また、チャンスがあれば行くことにして我が家へ帰った。