yukemuriのブログ

コント(掌編小説),いろはカルタ随想、江戸川柳色は匂へ、花かるた色は匂へ、趣味の5・7・5アラカルト俳句と川柳。

新しく「江戸を見れば」265年の整理に取り組んでいます。

江戸を見れば 58 佐倉藩主幕政批判  芭蕉17歳

 1660年万治3年庚子(かのえね)9月28日に佐倉藩主堀田正信は、老中松平信綱らの政治姿勢を批判して上書を提出し所領の返上を申し出る。それほどに天下の人民は疲弊し武士は困窮していた。


 藩主堀田正信は11月に改易される。


 芭蕉は仙気(せんき)という持病を持っていた。下腹部に発作的に激痛が繰り返し起こる。癪持ち。現代で言うならば胆石症や尿道結石症があったのではなかろうかと思われる。


 芭蕉が仕えていた藤堂新七郎、当時の藩主、藤堂良精(よしきよ)の嗣子藤堂主計(かずえ)良忠、俳名蝉吟(せんぎん)、以後蝉吟と呼ぶ。


 蝉吟の二人の兄が早世して、蝉吟が嗣子と定められたが、その蝉吟も25歳で没し、その弟、良重も嗣子と定められたが家督を継ぐことなく24歳で没した。更に5男の良兼も早世した。


 藤堂良精の子どもたちはいずれも健康に恵まれなかった。


 蝉吟の最初の妻は藤堂玄蕃家の娘で蝉吟18歳の年に没し、藤堂釆女家の娘を二度目の妻として迎える。二度目の妻の子どもが探丸(たんがん)俳名、本名藤堂良長(よしなが)で藤堂七郎家の跡を継ぐことになる。


 探丸は芭蕉を深く敬愛し晩年芭蕉が帰郷した際は特別な敬愛をよせて芭蕉を迎えた。
 蝉吟と探丸の親子二代にわたる人間関係の中で芭蕉の人生は充実した一生を送ることができた。


 芭蕉の人柄と能力の高さが伝わってくる。仙気の持病が気に入った。