yukemuriのブログ

コント(掌編小説),いろはカルタ随想、江戸川柳色は匂へ、花かるた色は匂へ、趣味の5・7・5アラカルト俳句と川柳。

新しく「江戸を見れば」265年の整理に取り組んでいます。

江戸を見れば 37  タンポ・コタツ・据(すえ)風呂

 1639年 寛永16年己卯(つちのとう) 明正天皇在位11年、3代将軍徳川家光在位17年。時の権力者は大老の土井利勝(16万石)、酒井忠勝(12万3千石)で、ポルトガル人を放逐し、ポルトガル船の来航を禁止する。


 江戸城大火で二丸・天守閣・櫓だけが残る。恒常的に日本列島は大火と地震と洪水に見舞われてその対応だけでも大変であった。


 江戸の町では無頼の徒が徘徊し、盗賊の出没が続いた。


 和歌山藩主(紀州徳川家)は甥の将軍家光に寄りかかりのタンポとコタツと据え風呂を贈与した。タンポは銅製で大きさは枕ぐらいで小さい口があり、中に湯を入れて寝床の中に置き腰や足を温めるもの、中国から輸入された保温具。現在の湯たんぽ。
コタツは禅林で使われていたもので室町期にすでにあった。
据え風呂は携帯用移動風呂桶で鎌倉期からあったという。


 江戸では町ごとに風呂があり、びた15銭から20銭で利用できた。風呂には湯女が20人から30人居て、あかをかき髪をすすぐ、女房達も湯や茶を持ち寄って世間話に花を咲かせ時間を過ごす。


 びた=鐚銭(びたせん)の略で日本では粗悪な銭の意味。永楽銭以外の銭、一文銭の寛永鉄銭の称。


 江戸吉原の遊女屋が湯女風呂に抱えの遊女を送り込み売春をさせたことが発覚して処罰されるという事件もあった。


 庶民の生活感覚は大きく変わっていこうとし始めていた。前年に成稿された編者松江重頼の俳諧論書「毛吹草」は当時の社会・文化・生活の資料となっている。


 当時の連歌から俳句、川柳が派生して来る流れや当時の言葉遊びの様子が良く分かる。中でも和歌・俳句の回文などの言葉遊びも盛んであった。


 回文(初めから読んでも終わりから読んでも意味が同じ)の例


 みな草の名は百と知れ、薬なり、すぐれし徳は花の作並
(みなくさのなははくとしれくすりなりすくれしとくははなのさくなみ)


 はかなの世しばしよしばし世の中は
(はかなのよしはしよしはしよのなかは)


 徳川幕府の厳しい規制にもかかわらず江戸の庶民は新しい時代への基礎教養を身につけ始めていた。新しい文学の芽生えが、封建社会を打ち破る思想・哲学の流れとなっていく。