yukemuriのブログ

コント(掌編小説),いろはカルタ随想、江戸川柳色は匂へ、花かるた色は匂へ、趣味の5・7・5アラカルト俳句と川柳。

新しく「江戸を見れば」265年の整理に取り組んでいます。

江戸を見れば88  芭蕉47歳  捨て子を厳禁

 1690年元禄3年庚午(かのえうま)再び「捨て子厳禁令」を出す。もし養育できない時は、奉公人はその主人に、天領では代官部下の手付・手代へ私領や町では名主・五人組へその理由を申告すること。理由が認められればその地で養育すること。違反者は厳罰。


芭 蕉 歳旦吟   薦(こも)を着て誰人(だれびと)います花のはる
(菰をかぶった乞食。もしや元は身分ある方かも。春着まぶしい桜の下。)


木(こ)のもとに汁も鱠(なます)も桜かな
 (花見酒。汁にも鱠にも、散るさくら。酔ってます。)


行春を近江の人とおしみけり
 (去年は奥の細道。今年は琵琶湖の春。過ぎ行く時に惜春の情。)


頓(やが)て死ぬけしきは見えず蟬の声
 (秋には終わるものを、今をやかましいばかりに生きている。蝉よ。)


病鳫(やむかり)の夜さむに落て旅ね哉
 (秋も深まった夜寒。弱った雁の泣き声。持病もちで孤独な私が旅寝する。)


干鮭(からさけ)も空也の痩(やせ)も寒の中(うち)
 (ひからびた乾鮭、寒中の修行僧空也も痩せていく。刻苦の旅の中に。)




江戸を見れば87  芭蕉46歳 「奥の細道」成稿

 1689年元禄2年己巳(つちのとみ)2月に綱吉は新たに奥詰衆を置き側近の諮問に応えさせた。これは外様大名から選ぶ。譜代、外様の区別なく有能な人材を幕政に登用した。側近政治の温床になる。


芭蕉 歳旦吟


元日は田毎の日こそこひしけれ
 (更科の田毎の月のすばらしさ。初日の映る「田毎の日」はどんなものであろう。更科
  の旅が胸にせまるよ。)


 3月初旬、みちのく行脚に出立。先ず、杉風(さんぷう)の別墅(べっしょ)に移る。


 3月27日、曾良を伴い奥羽北陸の旅に出る。8月20日過ぎごろ大垣に至り9月6日まで滞在。この旅で「不易流行論」を着想。


 旅中吟の一部


風流の初やおくの田植うた
 (白河の関を超えて奥州に入った。ひなびた奥州の田植え歌が私を迎えてくれた。風流だね。)


さみだれをあつめて早しもがみ川
 (五月雨で最上川はあふれんばかり。私の身も心も本流にのまれそうだ。)


象潟や雨に西施がねぶの花
 (雨にぬれるねむの花。哀れな優しさが美人の西施を空想させる。)


荒海や佐渡によこたふ天川
 (日本海の荒海の中に喜怒哀楽渦巻く佐渡島。何もかも流して今宵は天の川を観賞しよ
  う。)


塚もうごけ我泣声は秋の風
 (私を待ち焦がれて亡くなった「一笑」よ。悲しみに耐えられず大声をあげて泣いた。
  私の泣き声が秋風となり塚を吹き抜ける。一笑よ。一笑よ・・・。)


 以上の旅の紀行が「奥の細道」である。


 9月下旬、伊賀上野に帰郷し、俳事を重ねて11月まで滞在。11月末、奈良に出て、京都、大津に遊ぶ。このころ「不易流行論」を説く。


 12月、季吟、湖春父子が幕府の歌学方となる。季吟は芭蕉の師。


「不易流行」論


 芭蕉が古人の伝統を継承し、それを自己の創造の上に生かしてゆこうとしました。相矛盾した二つの課題に芭蕉はどう応えようとしたのでしょう。それが『奥の細道』の旅を通じて開眼し、その後門人たちに説かれるようになった「不易流行」の理念です。

 俳諧は絶えず新しく変化してゆくところに不変の本質があるという文学観と、俳諧の不変の価値は風雅の誠を追求する絶えざる自己脱皮から生まれるという実践論とを包合するものでした。

江戸を見れば86  芭蕉45歳 西鶴「日本永代蔵」刊行

 1688年貞享5年戊辰(つちのえたつ)元禄元年(9月30日)
側用人の人数が老中より多くなり将軍の側近として御用部屋を持つようになった。
11月に柳沢保明・南部直政が側用人となちやがて保明は実権を握るようになった。老中の諮問を待たずに将軍が直接、側用人に命じ執行させた。


歳旦吟  二日にもぬかりはせじな花の春 
      (宵の年に飲み過ぎた。2日の朝、初春の気分を味わうことにしよう。)


二月初め、伊勢神宮参拝、杜国(とこく)に会う。


何の木の花とは知らず匂哉 
  (神殿に向かって額ずいていると、妙なる匂いが、何の花だろう。身も心も清められ
   る。)


 2月18日、父の33回忌追善法要を実家で営む。


 3月、旧主家藤堂探丸子の別邸に招かれる。探丸子は伊賀の小大名・藤堂良長。芭蕉はかつて、その父・藤堂良忠に近侍した。探丸子は殊の外芭蕉を慕い敬愛した。


さまざまの事思ひ出す桜かな  
  (思い出の感慨に言葉もなくただ涙ぐむばかりであった。)


 3月19日、杜国(万菊丸)を伴って吉野の花見へ、4月23日京都に。


扇にて酒くむかげやちる桜
  (扇で酒くむ所作ごとの、その上に花が散りしきる。)


ちゝはゝのしきりにこひし雉の声
  (高野の奥に佇んで雉の鳴き声を聞く。父母の慈愛が胸いっぱいにあふるる。)


草臥(くたび)れて宿かる比(ころ)や藤の花
  (歩き疲れて宿を乞う。暮れていく夕靄の中に藤の花房。旅愁しばし)


 8月11日


おくられつおくりつはては木曽の秋
  (出会いと別れを重ねた旅。木曽路の山中で暮れることになった。秋だ。)


 8月15日、信濃の国更科の月見に赴く。


俤(おもかげ)や姨(をば)ひとりなく月の友
  (中秋の名月の夜、更科の里に入った。月下の姨捨山を見る。哀れ深い伝説の里で、            姨を慰めその俤を友として一夜を過ごそう。)


 善光寺に参詣した後、碓氷峠を経て江戸に帰る。この旅の紀行が「更科紀行」である。


 芭蕉の江戸での生活は来訪者が多く多忙を極めた。


杜国 本名坪井庄兵衛。名古屋の蕉門の有力者。芭蕉が特に目を掛けた門人の一人(真偽のほどは不明だが師弟間に男色説がある)

 杜国は名古屋御薗町の町代、富裕な米穀商であったが、倉に実物がないのにいかにも有るように見せかけて米を売買する空米売買の詐欺罪(延べ取引きといった)に問われ流罪となる。

 もっとも監視もない流刑の身のこと、南彦左衛門、俳号野人または野仁と称して芭蕉とともに『笈の小文』の旅を続けたりもしていた。

 元禄3年2月20日、34歳の若さで死去。


江戸を見れば85  芭蕉44歳  生類憐みの令

 1687年貞享4年丁卯(ひのとう)正月27日に綱吉は生類憐みの令を出した。綱吉の仏教信仰や儒教意識が基盤となっていたが、仏教の狂信者である母桂昌院の示唆が大きい力であったともいう。


 今では考えられないことで死罪や流罪が簡単に行われた。
 家綱の命日に吹き矢で燕を射たもの二人を死罪と流罪にする。


芭蕉44歳の句から5句を紹介


花にあそぶ虻なくらひそ友雀(ともすずめ)   芭  蕉
 無心に花にあそんでいる虻。雀たちよ虻をとらえて食わないでおくれ。


花の雲鐘は上野か浅草歟(か)         芭  蕉
 のどかですなあ。花も朧、鐘も朧、上野の鐘か、浅草の鐘か聞きわけがつかないよ。


髪はえて容顔蒼(ようがんあお)し五月雨(さつきあめ) 芭  蕉
 ふりつづく五月雨。草庵で不精をしているといつの間にか髪はぼうぼう顔まで梅雨色に染まって見えることよ。


旅人と我名よばれん初しぐれ          芭  蕉
 いよいよ初しぐれが近いか。さあ旅に出て道々旅人と呼ばれて行こう。


箱根こす人も有(ある)らし今朝の雪      芭  蕉
 一夜の雪であたりはすっかり銀世界。この雪の中、箱根八里を超す人もあるようだ。


http://www.ctb.ne.jp/~bonta108/  「遊行ライフ」

https://conte55.blogspot.jp         「ショート・ショート 7本」

江戸川柳 色は匂へ  「う」の2 嘘

夢に見んしたと真赤なうそをつき   嘘でも言われてみたいもんだ。


傾城に嘘をつくなとむりを言い    嘘がないと生きていけないよ。


嘘つかぬ傾城買うて淋しがり     わかっちゃいるけど淋しいね。


どのうそが本の夫婦になろうやら   真も嘘も紙一重、わからん。


傾城はそらごと女房小言也        そらごとは夢、小言は現実、女房はつらい。


参考、傾城=城を傾けるほどの美女。転じて官許の遊里の上妓をいう。