yukemuriのブログ

コント(掌編小説), いろはカルタに纏わる思い、人情の機微に触れる江戸川柳色は匂へ、趣味の5・7・5アラカルト俳句と川柳。
爺が時事や事事をつぶやき暇つぶしを楽しく、あっさりと ずばりと、そして、すっきりと 晩年を過ごしたいものである。

江戸を見れば   9 伝道抜きの貿易に関心

 1611年 慶長16年辛亥(かのとい)家康はキリシタン伝道を抜きにした貿易の利益に関心を示した。イスパニア、フイリッピン、明国と次々に接見し、その年の秋には外国船80隻が長崎に寄港し交易が盛んとなる。


 人や物の動きが盛んとなり、道路や港の整備や道路交通法の見直し、江戸中心の街道の駄賃規定など厳しく規制していった。


 江戸から品川までを例にとると、上下の駄賃は一駄賃45貫目に京銭26文。人足費はその半分。宿場に泊まるときは馬方の宿賃は荷主の負担、帰る馬に荷物をつける時は荷主と馬方との相対。


 旅籠での泊まり賃(木賃宿賃)も決められていた。人は銭三文、馬は六文で人の倍額を取られた。(木賃とは木銭とも言い燃料の薪代のこと)


 これまでは庶民は旅行のさいには食料を携帯して農家などに泊まるときは薪代を払って食事をしたという。(旅籠とは携帯食料の容器のこと)これから旅籠屋という旅宿ができた。


 農家などの副業としての木賃宿や専業の旅籠屋が大いににぎわった。


 武家や公家は旅行の時には宿場の本陣に宿泊した。


 東京オリンピックに備えて、民間の家を宿泊施設として利用できるように法整備をしているということであるが、江戸の木賃宿や旅籠を連想して人間は同じようなことを繰り返すものだなあと少しだけ楽しくなってくる。


花かるた 色は匂へ 「ほ」の2 牡丹(夏)

   庭牡丹見つゝどこへも出ずじまひ   池内たけし


   
     季節の花300より


   白牡丹金に染まりしところあり   八木 春


   

       季節の花300より


   ボタンの花言葉は、「風格」「富貴」「恥じらい」「人見知り」


花言葉の「風格」は、絹のように薄く大きな花びらが幾重にも重なり、まり状にまとまったその花姿にちなみます。原産地の中国では、花の豪華さと気品が他を圧倒するものとして花王、花神の別称もあります。

ボタンとシャクヤクは、 ともにボタン科ボタン属である。

ボタンとシャクヤク(芍薬)の花はよく似ています。ボタンが樹木であるのに対して、シャクヤクは草本です。やや小ぶりで端麗・若々しい印象をあたえるシャクヤクに対して、ボタンには重厚で凛々しい雰囲気があります。



江戸を見れば   8 一年季奉公の禁止

  1610年 慶長15年庚戌(かのえいぬ)7月19日、江戸増上寺の存応が、浄土宗の僧侶で初めて国師号を賜る。


 奉公とは江戸における雇用契約の一つであった。


 雇用契約には、終身のものと期限を定めたものがあった。現在で言うならば終身のものが正社員で、期限限定の年季奉公が契約社員のようなものである。
 終身の正社員は身分が安定していた。雇用する方も一人前に育て上げようと社会道徳や礼儀作法を仕込むことになる。一人前になればお暇を頂いて独立することもできる。
 ただ、独立する場合はお礼奉公をしなければ一人前の社会人とは認められなかった。


 慶長15年4月に1年季奉公の禁止をしたことにはそれなりの理由があった。
 武家への中間・小者としての奉公、商家への丁稚奉公、職人親方への徒弟奉公、一般の下男・下女奉公など侍も含めて一年季奉公を禁止した。


 一年季奉公という自由労働者が増えることによって、労務の調達が不安定になったことを安定させるための規制であった。


 現在の雇用形態に対する一つの警鐘になるのではなかろうか。


 吉原の年季奉公は大変だ。年明きの28歳まで勤め上げて足を洗うか、金のある客に見初められて身請けされるか、死んで苦海から脱出するかの三つの方法しかなかった。


         なんとも哀しい世界ではないか。現在は大丈夫か。




花かるた 色は匂へ 「は」の6 濱木綿(夏)

   浜木綿のたゞ咲くばかり無人島   平林春子


   
      季節の花300より(別名 はまおもと)


 戦後、すれ違いメロドラマの最高傑作。「君の名は」


 海辺の町では現在でも浜木綿が群生し、町の中では、浜木綿という名の施設名が目に留まる。

 濱昼顔や浜木綿は、戦後を学生として過ごした年配には懐かしい響きを持つ。

    

        季節の花300より


  作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而、唄:織井茂子


1 君の名はと たずねし人あり その人の名も知らず 

  今日砂山に ただひとりきて 浜昼顔に きいてみる


2 夜霧の街 思い出の橋よ 過ぎた日のあの夜が 

  ただ何となく 胸にしみじみ 東京恋しや 忘られぬ


3 海の涯に満月が出たよ 浜木綿(はまゆう)の花の香に

  海女(あま)は真珠の 涙ほろほろ 夜の汽笛が 

  かなしいか



江戸を見れば   7 島津家の琉球(沖縄)支配を認める

 1609年 慶長14年己酉(つちのととり)実力者、徳川家康は7月に島津家に琉球の支配を認める。オランダとの通商が本格的に始まる。


 幕府の要求を一貫して無視する琉球に対して、幕府は薩摩藩主島津忠恒に琉球への侵攻を許可する。これによって何かにつけて幕府の影響を受けることになる。


 薩摩藩はこれをきっかけに琉球を通しての密貿易で財を成す。


 明治政府により琉球が強制併合され、1872年(明治5年)に琉球藩となり、1879年(明治12年)に沖縄県となる。


 太平洋戦争の後、アメリカ政府の軍政下に置かれ、朝鮮戦争からベトナム戦争へと沖縄が戦争の最前線基地として、辛酸を舐めた。
 1969年(昭和44年)の日米首脳会談では、アメリカ大統領ニクソンが沖縄返還を約束し、1972年(昭和47年)米軍基地を維持したまま核抜き本土並みの返還がなされた。琉球政府は再び沖縄県として日本へ復帰した。


 沖縄の歴史を丁寧に調べていかなければ、今日置かれている沖縄県民の心情や文化と歴史を理解することはできない。


 薩摩藩の資金力と長州藩の政治力が薩長同盟として、新しい時代を志向したことは、徳川家康には思いもよらないこと。


 黒田清隆、松方正義、山本権兵衛、大久保利光、森有礼、・・・二階堂進、山中貞則、小泉純也(小泉純一郎の父)・・・特に東郷平八郎を筆頭に軍人に多くの人材を輩出しているのも薩摩藩の特徴かもしれない。