yukemuriのブログ

コント(掌編小説),いろはカルタ随想、江戸川柳色は匂へ、花かるた色は匂へ、趣味の5・7・5アラカルト俳句と川柳。

新しく「江戸を見れば」265年の整理に取り組んでいます。

江戸川柳 色は匂へ  「と」の2 遠眼鏡(とおめがね)

 こそぐってはやく受けとる遠目がね

 見晴らしの良い場所では有料で筒形の遠眼鏡を貸していた。仲間の一人がよく見えると悦に入っていると連れの仲間がくすぐって交代を促す。


 かいま見は尻をつめって代わりあい 美人だろう。声ひそめて交代。


 成程と言って又見る遠めがね    肉眼で見てもう一度遠眼鏡で。

 遠眼鏡見てゐて人に拾われる    銭が落ちていても遠眼鏡ではね。
  

ホームページ「遊行ライフ」80歳からの生き方記録、行雲流水、どこまでいけるかいけるとこまで楽しみながら。

   
   




花かるた 色は匂へ 「や」の3 矢車菊 夏

   北歐は矢車咲くや麥の中   山口青邨


   
          季節の花300より


   

          季節の花300より


  ヤグルマギクの花言葉は、「繊細」「優美」「教育」「信頼」


花名の矢車菊(ヤグルマギク)は、5月5日の端午の節句が近づくと花を咲かせ、その姿がこいのぼりの先端につける矢車に似ていることにちなむといわれます。

なお、矢車草(ヤグルマソウ)と呼ばれた時期もありますが、現在ではヤグルマギクに統一されています。

英語では「Cornflower(小麦の花)」と呼ばれ、ヨーロッパの麦畑の中に咲いていたことに由来します。

花言葉の由来 花言葉の「繊細」は、その青い花の色に由来するといわれます。「教育」の花言葉は、プロシア王妃がヤグルマギクを摘みながら王子たちを教育したことにちなむともいわれます。


※ナポレオン・ボナパルト(1769~1821)がプロイセンに攻め入ったとき、ベルリンを逃れたプロイセンのルイーゼ王妃(1776~1810)は子供たちと一緒に麦畑に隠れました。王妃は王子たちを慰めるためにヤグルマギクで花冠をつくってあげたといわれます。

その王子の一人が後に初代ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世(1797~1888)となり、ヤグルマギクを皇帝の紋章にしました。ドイツではヤグルマギクを「カイゼル(皇帝)の花」と呼び、現在もドイツの国花とされています。

江戸を見れば 47  慶安御触書31条

 1649年 慶安2年己丑(つちのとうし)農民に対して31条の制規(規則)が出された。


 ここまで制規するのかというような内容もある。


・ 朝起きをして、朝草を刈、昼は田畑の耕作にかかり、晩には縄をない、
 たわらをあみ、それぞれの仕事を油断なく行うこと。
・ 幕府の法令を怠ったり、地頭や代官のことを粗末に考えたりせず、また名
 主や組頭のことは真の親のように思って尊敬すること。
・ 酒や茶を買って飲まないこと。妻子も同じ。
・ 農民達は粟や稗などの雑穀などを食べ、米を多く食べ過ぎないこと。
・ 農民達は、麻と木綿のほかは着てはいけない。帯や裏地にも使ってはなら
 ない。
・ 男は農耕、女房は機織りに励み、夜なべをして夫婦ともよく働くこと
・ たとえ美しい女房であっても、夫のことをおろそかにし、茶を飲み、寺社
 への参詣や遊山を好む女房とは離別すること。しかし、子供が多くあり、
 以前から色々と世話をかけた女房であれば別である。また、容姿が醜くて
 も、夫の所帯を大切にする女房には、親切にしてやるべきである。
 煙草を吸わないこと。これは食物にもならず、いずれ病気になるものであ
 る。その上時間もかかり、金もかかり、火の用心も必要になるなど悪いも
 のである。全てにおいて損になるものである。


 慶安御触書31条は江戸幕府が農民統制のために発令した幕法とされている文書。現在では幕法ではなく、元禄10年(1697年)に甲斐国甲府藩領で発布されていた農民教諭書が慶安年間の幕法であるとする伝承が付加され広まったものであると考えられている。


 農民から年貢を搾り取った江戸時代、恐るべし。


遊行ライフ(行雲流水・黙とう・落穂ひろいの心境)



江戸を見れば 46  禁止、禁止の八百八町

 1648年 正保5年戊子(つちのえね)・慶安元年(2月15日)


 家光将軍在籍26年目 時の権力者 大老 酒井忠勝(11年目)


 禁止きんしの  八百八町で  かるためくってネ
 さんま食う   ダンチョネ


 家光は目黒に狩猟に、そこの農家で焼き立てのさんまを初めて食う。城では骨抜きをし、油抜きをして殿の御膳に出す。うまくないことおびただしい。


「これは、どこのサンマじゃ。」
「房州沖のサンマでございます。」
「サンマは目黒にかぎる。」


八百八町=実際に八百八町あったわけではなく、多いという意味。
かるた=遊戯または博打(ばくち)の具。花札もその一つ。


 6月に公事(くじ)訴訟手続きが規定され、家持は名主・五人組を通じて、借家の者は家主を通じてというもの、町人の日常生活についての細かな規制がなされた。
 大坂・江戸の商人の家督相続の改定も行われた。商業資本の力を意識し始めてのことである。大阪の町人に遺言状や宅地売買には名主・五人組の加判を要することなど。


 示達・規制・禁止で町人は大変であった。例えば、
 町人・召使の旅行以外の帯刀、召使のビロード・絹の帯・下帯の着用禁止、道路での宝引(ほうびき、福引のこと)を禁止、駕籠に乗れるのは60歳以上などなど。数え切れない。


遊行ライフ 落穂ひろい 



江戸を見れば 45  諸大名の報告義務

 1647年 正保4年丁亥(ひのとい) 報告義務を怠ったり、ましてや書類を破棄したりというようなことは考えられないことである。
 命令違反は即処罰の対象になった。御国取り潰しも当然考えなければならない。


 大臣辞任なんて、そんな甘いものではない。


 諸大名に証人の知行高・実子惣領・年齢を報告させる。


 幕府は諸大名の重臣の妻子を年数を決めて江戸屋敷に人質として住まわせていた。この時の規定では、
① 次子を出すときは長子を出せない理由を書くこと。 
② 妻に子がなく養子を出すときは、実子のないことを記し、その養子は親戚
 か他家か、婿養子か、その実父の名前を記すこと。
③ 兄弟があれば、兄弟の人数、長子次子ともに出さないときはその子細を記
 すこと。
④ 姉妹のときは男の兄弟の子細を記し、孫出すときは長子の子か二、三男の
 子か。また外孫のときはその父の姓名を記すこと、娘を出すときは男子の
 いない事情を記し、長女か二女か、また末女か、長女を出せない子細を記
 すこととなっている。


 6月にはポルトガル商船が来航し通称再開を要請したが、幕府は九州の諸大名に警備のために船八九八艘と兵四万八三五四人を動員して要請を拒絶した。


 幕藩体制の維持のために、人質や参勤交代を厳しく管理して、鎖国によってキリシタンを阻止した。それでも幕藩体制は次の社会体制に向かって流れ始める。
 その推進力になったのが教育である。教育の力に待つ。陽明学。


 遊行ライフ(行雲流水の境地)