yukemuriのブログ

コント(掌編小説),いろはカルタ随想、江戸川柳色は匂へ、花かるた色は匂へ、趣味の5・7・5アラカルト俳句と川柳。

新しく「江戸を見れば」265年の整理に取り組んでいます。

江戸を見れば 63 芭蕉22歳   茶屋対吉原の女争奪戦

 1665年寛文5年乙巳(きのとみ)幕府は武士層の養子制について制約を緩和してきたが、家康の50年忌の法会にあたって、人質として証人を呈出することをやめることにした。


 茶屋と吉原が女の奪い合いで流血事件を起こす。茶屋の抱女を吉原が奪い、それをまた茶屋側が奪い返すという事件が起こった。幕府の支持のもとに吉原側が私娼取り締まりに参加することによってことを収めた。


 この年、藤堂新七郎家の嗣子、蝉吟(せんぎん)の主催で松永貞徳の13回忌追善百韻俳諧に芭蕉、当時の俳号宗房も参加する。一奉公人である芭蕉が主人と同座できたのは蝉吟がまだ部屋住みの身であったからで、家督を継いで当主となっていれば同座は無理であったろう。


 2歳先輩の西鶴(俳号鶴永)、裕福な町人として1662年から俳諧の点者として活躍していた。井原鶴永が井原西鶴と改号するのは8年後の32歳である。


 蝉吟24歳、芭蕉22歳、宗匠の北村季吟は42歳であった。
 蝉吟が没する1年前の寛文5年は、若い西鶴(鶴永)と芭蕉(宗房)の江戸文学の芽生えの時期でこれから新しい風を起こしていく起点である。


 消費生活の拡大に伴い幕府の統制も限界に達しつつあった。膨らんでいく都市生活を相変わらず禁止禁止で統御しようとしていた。
 町中での花火遊びや花火製造・販売を禁止。辻立、辻鞠(まり)、辻相撲を禁止。分銅の私製,潰し金銀塊の売買禁止。数え上げれば切りがないほど生活に密着するあらゆることを禁止で規制していった。


 辻立(つじだち)=①町角に立つこと。特に、物売りなどのために路傍に立つこと。また、その人。 ②遊女の道中などの見物のために路傍に立つこと。


花かるた 色は匂へ 「こ」の2 コスモス(秋)

   病めばなほ人のこひしく秋櫻  谷口てる子


   

        季節の花300より

   透きとほる日ざしの中の秋ざくら  木村享史


   

          季節の花300より

   コスモスの風にぬすまれさうな色  藤崎久を


      

        季節の花300より

コスモス全般の花言葉は、「乙女の真心」「調和」「謙虚」
赤いコスモスは「愛情」「調和」 白いコスモスは「優美」 ピンクのコスモスは「純潔」

 コスモス(cosmos)”の語源は、ギリシャ語の「秩序」「飾り」「美しい」という意味の「Kosmos, Cosmos」の言葉に由来する。   

 このことから、星がきれいにそろう宇宙のことをcosmosと呼び、また、花びらが整然と並ぶこの花もcosmosと呼ぶようになった。

 化粧品のコスメティクスも同じ語源です。




江戸を見れば 62 芭蕉21歳  幕政運営の効率化が始まる

 1664年寛文4年甲辰(きのえたつ)政務の案件を連署していたのを小事の案件については月番老中で処理できるように処置する。公家、門跡、一門、参勤交代などの案件は4,5名の老中で構成される最高機関の全員で連署すること。


 姥桜(うばざくら)さくや老後の思い出(いで)   宗 房


 見事に咲いた姥桜よ。老後の名誉に一花さかせようというのか。季語は「姥桜」で春。


 姥桜はひがん桜の一種で山桜とちがい落下するまで葉が芽吹かないので「歯なし」と言いかけて姥の名を冠する。


 謡曲「実盛」の本歌取りの句。
 貞門俳諧の大きな特徴は、古典を読むことを初心者向けの俳諧入門の基本とした。松永貞徳は上流社会の遊び事である俳諧を上品な笑いの文芸にまで高めようと試みた。
 蝉吟の宗匠である季吟は膨大な古典の注釈書を俳諧の入門書として残した。万葉集にはじまり源氏物語、枕草子、徒然草、八代集など。当時、俳諧は古典文学の知識が必要だということが常識であった。


 寺子屋で謡曲をはじめかなりの古典が教材として使用されていたので芭蕉も基礎的な学習はできていたと考えられるが、源氏物語をはじめ古典の書物を手にすることは難しいことであった。
 芭蕉は13歳ころから藤堂家に武家奉公に出て、藤堂家の嗣子の蝉吟のもとで蝉吟が手にする古典を同じように手にすることができたことが芭蕉の俳諧の基本を形成したと考えられる。


江戸を見れば 61  芭蕉20歳  新武家諸法度追加

 1663年寛文3年癸卯(みずのとう)5月に新「武家諸法度」が出され3か条が追加された。公家との縁組は奉行所に届け出て指示を受けること。キリシタンの禁教、不幸者の処罰。そして殉死(追腹)が禁止された。


月ぞしるべこなたへ入(い)らせ旅の宿   宗 房


 明るい月を道案内にどうぞ私どもの宿にお泊り下さい。季語は月で秋。


 当時、謡曲を取り入れた句が流行した。若き芭蕉(宗房)も流行を取り入れて時代をよむ敏感さを持っていた。


謡曲の文句どりをした西山宗因の流行の先駆けになった一句


 里人の渡りさふらふか橋の霜   宗 因


 若き芭蕉は謡曲「鞍馬天狗」の「奥は鞍馬の山道の花ぞしるべなる。こなたへ入らせ給へや」に文句を取り、花を月に振りかえ、宿屋の客引きの言葉を謡曲仕立てに一句をひねった。


「入らせ給へ」を「入らせ旅」に置き換えたのは、当時の貞門俳諧の作法の一つ、五音相通(ごいんそうつう)で、五十音図の同じ行の音は互いに通用するという考えによる。
 例えば「うお」を「いお」と置き換え、「スメラギ」を「スメロギ」と。
現在は同音相通であるが。地方に行くと未だに「うお」を「いお」と言う方言も生きている。


 若き芭蕉は、伝統の作法を守った優等生の俳句創作態度であった。



江戸川柳 色は匂へ  「た」の2 棚

人をばおろし我が事は棚へ上げ   よくみる光景だ。そんなもんだ。
 おろす=こきおろす、非難する。


女房を物さしにして棚をつり    仕事場だもんね。ご苦労さん。


大だわけ棚をねめつけ瘤へ唾    この野郎、いたのなんのって。


棚釣でわざとあたまをふって見る  大丈夫だ。


学問が棚へ上って声がはり     昔の坊やはもういない。